訪問したいという独大統領の願いを無碍に断ることが出来る国はそんなに多くないだろう。ドイツは欧州連合(EU)の盟主であり、米中日に次いで世界4番目の経済大国だ。その国の国家元首の訪問を断るにはそれなりの理由がなければならない。ロシア軍の攻撃を受けているウクライナは直接ではないが、外交ルートを通じてシュタインマイヤー大統領のキーウ訪問を断った。「わが国の大統領を断った」ということでドイツでは、まだ小さいがウクライナへ批判の声が聞かれ出した。それに驚いたウクライナのゼレンスキー大統領はオレクシー・アレストビッチ顧問を通じて、「わが国は独大統領のキーウ訪問を断ったわけではない」と弁明に追われ出した。
シュタインマイヤー大統領は12日、ポーランドとバルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)の4カ国の大統領と共にウクライナの首都キーウを訪問し、ゼレンスキー大統領に連帯表明をする予定だったが、「どうやらゼレンスキー大統領は私の訪問を喜んでいないようだ」ということで、キーウ訪問を諦めた。そのため、ポーランドのドゥダ大統領ら4カ国の国家元首だけが翌日(13日)、キーウを訪問した。
ドイツのメディアは、「ウクライナはシュタインマイヤー大統領の外相時代の親ロシア政策が気に食わないのだ。わが国には、大統領の訪問より、武器の供給を願っているだけだ」と報じた。「独大統領のキーウ訪問より、戦車、大砲、防空システムなどの重火器が必要」とすれば、その供給元のドイツ国家元首の訪問を丁重に扱うのが必須課題となるが、どうやら戦時下のウクライナはそう考えないらしいのだ。
シュタインマイヤー氏は2005年~09年、2013年~17年の2回、メルケル政権で外相を務めた。その外交手腕には定評があったが、ロシアに対してはメルケル政権下(「キリスト教民主・社会同盟=CDU/CSUと社会民主党との連立政権)では親ロシア政策が支配的だった。例えば、シュレーダー政権が開始したドイツとロシア間の天然ガスの輸送パイプライン建設「ノルド・ストリーム2」計画をメルケル政権は継続し、シュタインマイヤー氏は外相として、それを推進させたことは事実だが、それ以上ではなかった。
「ノルド・ストリーム2」はロシア産の天然ガスをドイツに直接運ぶもので、「ロシアのエネルギー依存体質を更に強化することになり、欧州安全保障上の立場からみても良くない」としてポーランドやバルト3国から激しい批判があったが、メルケル政権は当時、「同計画は経済プロジェクトに過ぎない」と説明して、懸念を一蹴、同パイプライン建設は昨年秋完成した。
いよいよ操業開始という段階でロシア軍のウクライナ侵攻が飛び出し、米国から強い圧力もあって、ショルツ首相は同計画の操業開始にストップをかけた経緯がある。
「ノルド・ストリーム2」プロジェクトは、キーウ側からみれば「経済プロジェクト」ではない。プーチン氏は天然ガスの対欧州輸出で稼いだ資金を軍事資金に利用し、その結果、ウクライナ国民の血が流されることになるからだ。
ただ、先述したように、シュタインマイヤー大統領にその責任があるわけではない。責任を追及すれば、16年間の政権を担当したメルケル首相の対ロ政策だろう。ロシアが2014年、クリミア半島を併合した時、メルケル政権は対ロシア制裁に参加したが、ロシアとの関係に決定的な見直しはなかった。また、ベルリンで2019年8月、チェチェン反体制派勢力の指導者殺人事件が発生し、ロシア反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏の毒殺未遂事件(2020年8月)が明らかになり、メルケル氏の対ロシア政策の修正を求める声は上がったが、メルケル首相は最後まで関与政策を続けた(「メルケル氏はプーチン氏に騙された」2022年3月30日参考)。
ウクライナのゼレンスキー大統領は先日、メルケル前首相とフランスのサルコジ元大統領の政権時代のロシア政策を厳しく批判し、メルケル氏には、「ブチャに来て何が起きたかを自分の目で見ればいい」と指摘している。同大統領によると、メルケル氏とサルコジ氏は2008年、ブカレストで開催されたウクライナの北大西洋条約機構(NATO)首脳会談でウクライナの加盟を拒絶したことを意味する。その6年後、プーチン大統領はクリミアを奪い、14年後にウクライナに侵攻したわけだ。ウクライナ国民の中にメルケル憎しと言った思いがあっても不思議ではない。その憎しみがシュタインマイヤー氏まで広がった、というのが実情かも知れない。
ゼレンスキー大統領は先月17日、ベルリンの連邦議会でオンライン演説をしたが、ドイツに対しては注文の多い演説内容だった。同大統領はドイツの経済支援に謝意を示す一方、「ドイツは過去、ロシアと密接な経済関係を深めてきた。武器供給でも最後まで渋り、ロシアとドイツ間の天然ガス輸送パイプラインのプロジェクト『ノルド・ストリーム2』に対しても『経済プロジェクトに過ぎない』と弁明し、土壇場まで閉鎖を拒否してきた」と指摘して、常に経済的利益を優先してきたと批判した。そして「今、ベルリンの壁ではなく、欧州に自由と不自由を隔てる壁ができている」と述べ、ショルツ独首相に「壁を壊してほしい」と訴えているのだ。
期待するゆえに、要求も多くなる、といえばその通りだが、ドイツに対してゼレンスキー氏は複雑な思いがあるのかもしれない。ロシアは5月9日を「対独戦勝記念日」として国家レベルで祝うが、ウクライナでもドイツの過去問題では同じかもしれない。ユダヤ人のゼレンスキー氏にはドイツへのアンビバレントな思いが渦巻いているのではないか。ドイツはウクライナにとって欧州最大の経済支援国だ。その国の国家元首のキーウ訪問を断るのは、どうみても賢明とは言えないのだ。
今回の件では在独ウクライナ大使館のメルニック大使の存在を無視しては考えられない。同大使はウクライナ戦争が勃発後、ドイツのメディアに頻繁に登場し、ロシアを厳しく批判する一方、武器供給を渋るショルツ首相をプッシュしてきた。今回、シュタインマイヤー大統領のキーウ訪問に最初に苦情を言ったのは同大使だ。
メルニック大使は、「シュタインマイヤー氏は外相時代、融和政策を続け、ロシアとの人脈を構築していった」(Spinnennetz der Kontakte mit Russland)と指摘、大統領のキーウ訪問を歓迎しない意向を明らかにした人物だ。同大使は日刊紙ターゲスシュピーゲルとのインタビューで、「シュタインマイヤー大統領はウクライナがどのようになってもいいのだ。一方、ロシアとの関係は土台であり、神聖なものとさえ考えている。」と辛らつに語っている。
ウクライナは現在、ロシア軍の攻勢を受け、戦時下にある。それゆえに、関係者の発言が時には感情に流されることがある。メルニック大使の独大統領のキーウ訪問拒否はその例ではないか。一方、ドイツ政府のビュヒナー副報道官は、「国家元首に対する甘受できない批判だ」と強い不満を表明している。ウクライナ側の対応ミスが今後の対ウクライナ支援にマイナスの影響をもたらさないか懸念される。
シュタインマイヤー大統領の訪問中止後、メルニック大使は、「わが国はショルツ首相の訪問を歓迎する」と述べたが、ショルツ首相はその招きを受けて直ぐにキーウを訪問することはないだろう。ショルツ首相は大統領の訪問を歓迎しなかった国にノコノコと出かけられない。ドイツにも国の面子というものがある。冷却時間が必要となるだろう。
ちなみに、シュタインマイヤー大統領は4日、「ロシアを欧州の共同安全体制に招き、ロシアの民主化を支援するといったドイツのこれまでのロシア政策は失敗だった。『ノルド・ストリーム2』計画は間違いだった」と述べている。シュタインマイヤー大統領のキーウ訪問はドイツとウクライナ両国間の過去問題を克服できる機会ともなっただけに、今回のウクライナ側の対応は残念だった。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年4月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。