東西本願寺と表千家・裏千家はどちらが本家か

八幡 和郎

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戦前の民法では「跡継ぎ」をはっきりさせていたから、本家争いは起きないようになっていた。しかし、江戸中期以前は割といい加減だった。だから、どこが本家か分からないことも多い。

たとえば、「鎌倉殿の13人」に登場する北条家などもその一例だ。政子の父である北条時政は義時には、江間姓を名乗らせ、京から迎えた牧の方との子である政範にあとをゆずるつもりだったのだが、早世した。

そこで、時政は義時の次男(母は比企氏)である朝時を嫡流にしようとしたが、時政が失脚したので義時が権力を掌握し、長男の泰時(八重のこと言うことにドラマではなっているが本当の母親は不明)に継承させた。

時政はセレブ母系で自分の家を補強したかったということだ。

武家では、新田氏と足利氏のどちらが本家かややこしい。足利義国の長男の義重は新田氏を名乗り、次男の義康が足利家を継いだ。母の身分の差なのかどうかよく分からない。

徳川家康の次男で越前領主だった結城(松平)秀康の跡は長男の忠直がついだが、御乱行で蟄居させられ、弟の忠昌が福井城主になって、忠直の嫡男光長は越後高田城主になった。

この光長の子孫は津山城主に移ったが、越前松平家の嫡流は自分たちだと拘った。

民間では東西本願寺と表千家・裏千家の関係がややこしい。そのあたりを、ベストセラーになっている『家系図でわかる 日本の上流階級 この国を動かす「名家」「名門」のすべて 』(清談社)で詳しく紹介したが、その一部を紹介しておこう。

浄土真宗の宗祖とされる親鸞の生家は藤原北家日野流の日野家。つまり藤原北家傍流の中流貴族であって、室町時代には、日野富子をはじめ足利将軍の正室を何人も出した。

青蓮院に入り、のちに天台座主となる慈円のもとで出家した。その後、比叡山にのぼり、鞄宴という僧名を授かる。親鴛はその後20年間、比叡山で修行するが、29歳で山を下りた。京の六角堂に100日間籠り、「女犯があっても教え導く(女犯偈)」夢告を救世観音の化身とされる聖徳太子から受ける。のち親鸞は法然の弟子となる。

修行に没頭し35歳のとき、法然一門は「建永の法難」と呼ばれる大弾圧に遭う。親鴛は越後に流される前に妻帯した。

親鸞は妻・恵信尼とのあいだに三男三女をもうけた。親鸞を看取った末娘の覚信尼は京東山の大谷の地に親鸞を葬ったが、のちに大谷廟堂、さらに大谷本願寺となる。覚信尼の孫である覚如は自らを本願寺三世と位置づけ、本願寺の法主を世襲で継承することになる。

15世紀の蓮如(1415~1499年)の出現で、本願寺教団は全国的に広がり、戦国大名に比す勢力となったが、織田信長との抗争の末に敗北。これ以後、教団の運営をめぐって顕如とその子教如が対立して本願寺教団は東西に分裂する。つまり、本願寺は三男の准如が継いだのだが、不満をもった長男教如の系統が東本願寺を創建して教団は分裂したのである。

東西本願寺の法主を継承した両家は、明治時代に大谷を姓として用い大谷家と呼ばれた。両大谷家は華族に列し、ともに伯爵を授けられている。

千利休の長男の道庵は利休が切腹したとき、九州の細川忠興のもとに赴き、子孫を残すことなく絶えた。そこで、千家は利休の後妻の連れ子で養子になった少庵と利休の庶子の子である宗旦が嗣いだ。

宗旦は不審庵にあったが三男の江岑斎宗左に譲り隠居して、今日庵へ移った。その今日庵は四男の仙叟宗室に引き継がれた。これが表千家、裏千家の始まりである。だから、本家、分家というほどの差ではない。

これに加え、早く宗旦から独立していた次男一翁宗守がのちに武者小路に官休庵を建てたので、併せ「三千家」と呼ばれることになった。