「どうする家康」桶狭間の戦いのころの尾張は全国4位の大国だった

「どうする家康」“巨大な今川軍に立ち向かう信長”の通説が誤りの理由という記事をDIAMOND onlineに書いた。例によって数行しか読まないヤフコメがたくさん来ている。

「どうする家康」“巨大な今川軍に立ち向かう信長”の通説が誤りの理由
NHK大河ドラマ「どうする家康」は第1回、いきなり桶狭間の戦いから始まった。“巨大な今川軍に立ち向かう信長”という通説が誤りの理由とは。

記事の内容はリンクを果てとくのでご覧いただきたいが、ここに書いている話の趣旨と、ヤフコメなどしている人からの勘違いも間違いやすいところなので、反論というわけでないが、大事なところなので、少し解説してみよう。

「どうする家康」NHK 公式サイトより

本稿の趣旨は以下のようなことだ。

「どうする家康」は桶狭間の戦いの頃から始まった。通説でもドラマでも巨大な今川に立ち向かう鬼才信長という設定だが、そもそも織田と今川は意外にもそれほどの石高の差でない。石高でもそんな違わない。

世代的に信秀の壮年期は織田が、義元の壮年期は今川が優勢で、信長が成長してきたので予防的に今川が出兵したのが基本構図。しかし、信長は思っていた以上に円熟しており、義元が返り討ちに遭った。

そうなると、もともとの実力に差がなかったので、織田の方が優勢になり、松平もそちらに就かざるを得なくなっただけ。

戦国時代や江戸時代は米中心経済だから、軍事力も人口も石高でかなり測れる。そして、日本人は江戸時代の大名の石高(江戸時代初期の生産力が基準)で領地の大小や軍事力を測りたがるが、それと戦国時代や幕末期の実収は地域ごとにまったく違ったものだ。

たとえば、尾張や近江など先進地域は早くから開発が進んでいたので、たとえば越後よりはるかに石高が大きかった。

また、江戸時代前半の生産力の向上で(土木技術に優れた濃尾出身の大名が全国に散らばった結果)未開発地域の生産力は伸びたが、とくに日本海側で多かった。

また、江戸時代の後半の薩長土肥などは、米中心の経済と税制から脱して富国強兵が進み、一方、従来の経済構造に固執した幕府や東日本諸藩は衰退した。

これが明治維新の原因である。

まず、論点は尾張一国と駿河・遠江・三河の石高差はそれほどないということだ。地図を見た印象では、だいぶ面積が違うが、それほどでない。また、江戸時代以降の尾張は開発余地がなかったのであまり伸びず、駿河・遠江・三河のほうが石高の増加は大きかったということだ。

とはいえ、領地の掌握のレベルが違うというのは、そのように書いてある。

私が書いているのは、どうして、桶狭間の戦いのあと急に家康まで織田に寝返ったかといえば、もともとの両国の力の差がないので、尾張が桶狭間での信長の勝利を見て、まとまったほうが強いからだということだ。

戦国時代の国別石高を30年後の太閤検地の結果と同じにはならないが、少なくとも100年以上も先の江戸医時代の石高よりは推定の材料にはなるのは当たり前である。

ところで、天正年間の木曽川の洪水で、流路が変わってしまったことはあまり知られていない。

このことは、地名に痕跡を残している。

太閤検地での石高は、尾張が571,737石で、美濃が540,000石だ。この尾張のなかには、羽栗郡14000石、中島郡8500石、海東郡86000石が入っている。それに対して、美濃にも羽栗郡19000石、中島郡87000石、海東西郡11000石がはいっているが、それが木曽川が流れを南に変えたので、尾張の一部が川向こうになり、やがて美濃に編入されたというわけだ。

こういうことはよくあって、その結果、一つの郡が複数の国になっていることが多い。たとえば、葛飾郡は下総国の一部だったが、利根川本流が現在の隅田川から銚子方面に付け替えられたので、葛飾郡は東京、千葉、埼玉、茨城に分かれているのである。