「光る君へ」では平安時代の強い女性たちの活躍が印象的ですが、先日の放送回では吉田羊さんが演じる一条天皇の生母藤原詮子が、甥の伊周でなく、弟の道長を関白道隆の後任にするように、一条天皇に強要する場面が出てきました。
ただし、その理由は、伊周は横暴で天皇の意を汲まないが、道長なら出しゃばらないとか言う平凡な理屈でしたし、一条天皇の決断はナレーションで誤魔化したので、ちょっとがっかりでした。
また、道長の第二夫人の源明子さんは、舅の兼家を父である源高明の仇として呪い殺した怖い女性だということになっています。
さて、彼女たちがどこに住んでいたかを『地名と地形から謎解き紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)に掲載した地図で説明しましょう。
藤原詮子は父親の邸宅であった東三条殿に住んで東三条院と呼ばれていました。東三条殿は、いまの御池通の西洞院と新町通のあいだの北側にありました。
ただし、この事件のころは、現在の仙洞御所の場所で藤原道長が源倫子と住んでいた故源雅信(宇多源氏)の土御門殿に居候していましたが、これも詮子が道長を推す伏線になりました。
源明子が住んでいたのは、東三条殿の御池通をはさんで南側にあった源高明の旧邸である高松殿に住んでいました。
瀧内公美さんが妖艶におどろおどろしく演じていますが、どんな女性だったかはあまり記録がありません。
頼宗、顕信、能信、寛子(小一条院女御)、尊子(源師房室)、長家という子どもがいましたが、どうも、倫子が産んだ子どもたちより、明子の産んだ子の方が出来が良かったようです。
それでも官職では、倫子のこの方が優遇されましたが、それを恨みに思った能信は後三条天皇の後ろ盾となり、養女の茂子を妃にし、その子が白河上皇となりました。つまり、摂関制の弱体化と院政のはじまりも倫子と明子の争いの延長線上にあったというわけです。
このほか、一条院も藤原詮子ゆかりです。一条南大宮東、つまり大内裏の北東の角と大宮通を挟んだ一町を占め、一条天皇の里内裏でした。
藤原詮子によって整備され、999年の内裏焼亡のときも里内裏として使われ、紫式部が彰子に初めて仕えたのはここでした。堀川に架かる一条戻橋の向かい側、晴明神社の少し南です。
一条大路の北側には、右近の馬場と左近の馬場があって競馬などを見物に貴族たちがでかけ、社交場であり男女の出会いの場でした。『源氏物語』にも登場する右近の馬場があったのは、北野天満宮と今出川通を挟んだ南側の一帯です。