首都東京には誕生日がない。明治になって、事実上の東京遷都が行われただが、正式の遷都宣言はなされないままで、「西還延期」の発表があっただけだからだ。
「天皇さんは『ちょっと行ってきますわ』と言うて関東へ行かはっただけでいつか戻ってきゃはるはずや」と京都人は好んで言う。
しかし、王政復古で朝廷と幕府の機能を引き継いだ太政官や、皇室や公家たちまでもが東京へ移り、京都市域の人口も約30万人から24万人弱に減少して京都は衰微した。
そこで、事実上、「みやこ」でなくなった京都の扱いは政府にとっても頭痛のたねで、明治天皇も非常に心を痛められた。なかには、状況が落ち着いたら京都に戻るのが筋という意見もあったし、逆に財政難を解消するために、御所を廃止して売却して田畑にするという案まであった。
こうした宙ぶらりんの状態に終止符を打ち、京都に首都機能の一部を分担させることで決着をつけたのは、明治天皇と岩倉具視の意向だった。1883年に京都御所の保存とそこでの即位礼など皇室行事を行うことを決めた。帝都東京と儀典都市京都という分担にしたのである。帝政ロシアにおけるサンクトペテルブルクとモスクワの役割分担を参考にしたのである。
同年、「即位礼及び大嘗会の如き盛儀は、京都御所に於て施行せらるべき」ことが勅定され、1889年制定の『皇室典範』で「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と明記された。
ここで重要なことは、こうした決定が、なし崩し的に行われた東京遷都を確定させるために、東京と京都に首都機能を分担させ、また、京都の経済的な発展も明確に目的として意識して下されたものだということであり、本来、東京が首都である限りは動かすべからざる性格のものだったはずだ。
そして、大正と昭和の即位礼は京都で挙行されたが、昭和の即位礼はきちんとした議論もないまま東京で行われた。明治天皇の叡慮をなんの検討もなく反故にした不敬な状況が続いている。
ただ、平成の御大典のときは、準備がされていなかったので、崩御の翌年に行う御大典を京都で行うには、ソフト・ハードのインフラができていなかった。しかし、もし数年後の御退位を検討するなら即位礼の京都での実施も十分に可能である。
また、明治天皇の御陵は、豊臣秀吉が好きだった天皇の格別の意向で伏見城跡に営まれた。そのかわりに東京市民の慰撫策として創建されたのが明治神宮だが、そちらは隆盛しているのに、肝心の伏見桃山御陵は訪れる人も少なく放置されたままなのは残念だ。
司馬遼太郎のうそを歴史と混同してどこが歴史家か
日露戦争の乃木希典が愚鈍な人物だとされたり、坂本龍馬が英雄になったのは、すべて司馬遼太郎の創作が史実と取り違えられたからだ。
東京遷都については、浪速遷都を主張していた大久保利通のもとに、前島密が「江戸寒士」という名で投書をし、そこに書かれた内容に感動した大久保が東京遷都に傾いた。のちに新政府に出仕した前島が大久保らと東京の都市改造を議論していたときに、そのときの投書の主がであることを名乗ったとしている。
この話のもとになる逸話は前島自身の回想録に出てくるだけで真偽は確認できない。また、司馬の小説にあるような経緯で東京遷都が決まったということはありえないのだ。
最後の将軍、慶喜は基本的に常に京都にあって、京都は名実ともに首都だった。明治になって、大久保利通は大阪へ首都を移そうとして実際に明治天皇は親征という建前ながら大坂城に移られたのだが、公家たちが平清盛の福原遷都の再現と警戒し、京都に戻った。
ところが、関東や東北で戊辰戦争が起こったので、東日本へ朝威を示す必要もあり、江戸行幸を実施し、かつ江戸城を東京城として、もはや江戸城に徳川氏を復帰させることはないと宣言したのだ。
そのうえで明治天皇はいったん京都に帰るのだが、三条実美らが「国家の興廃は、関東の人心の向背にかかっている。京都、大坂の人々が動揺して新政府を恨んだとしても、数千年にわたり皇室の恵みを受けて感化されている土地だ。関東は古来より皇室の恵みを受けること少ないので、ここに朝廷を置かないとあとが難しい」と主張したのが通って、東京遷都になったというのが正しい経緯で、江戸と浪速を比較してどうのこうのということは一度もないのだ。