古代における皇位継承に謎などない

皇室の歴史、現状、旧宮家、世界の王室という内容で、『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)というムックを作った。

皇室をめぐる問題のすべてについて、網羅的に扱い、知っていそうで実は知らない皇室の全容を各種の系図を使って把握できるように工夫してある。

今回はそのうち、古代の皇位継承について紹介したい。

奈良時代に日本国家の正史としてまとめられた『日本書紀』は、紀元前660年の正月(太陽暦では2月11日)に、日向からやってきた磐余彦(神武天皇)という武人が、その地の領主と戦って打ち勝ち、小さな国を畝傍山の麓に建国したと記している。

この一族は地元の有力者と縁組みしながら勢力を拡大したが、大和を統一し吉備や出雲あたりまで勢力圏に入れたのは、10代目の崇神天皇のときである。そして、14代目の仲哀天皇のときに北九州を支配下に入れ日本列島を統一し、半島にも進出した。

邪馬台国は、大和朝廷の北九州進出の1世紀程前の崇神天皇時代に滅びていたので、大陸と交流した邪馬台国が畿内にあったことは著しく不自然で、記憶や接点はなくて当然だ。

このことは、478年に中国南朝に使節を送った倭王武(雄略天皇)の上表文に書いていることと一致する。ただし、帝王の寿命が長すぎ、それを補正すると神武天皇の建国は、紀元前後、崇神天皇は3世紀後半、国家統一は4世紀前半のことになる。

『日本書紀』は、それ以降、皇統が断絶したことはないとしている。それを信じない人もいるが、とくに嘘だという根拠があるわけでない。

よく26代の継体天皇が武烈天皇と10親等も離れているので新王朝という人がいるが、雄略天皇が王族を排除しすぎ祖父の仁徳天皇の男系子孫がいなくなり、その父の応神天皇の子孫を地方から求めただけである。その証拠に、『日本書紀』で継体天皇は新王朝を開いた英雄らしく描かれていない。また、雄略天皇の母は、継体天皇の曾祖父の姉妹で疎遠な一族ではない。

『系図でたどる日本の皇族』より

また、応神天皇は騎馬民族とかいう人がいるが、継体天皇の即位の時、別候補だったのが、応神天皇の父・仲哀天皇の子孫である倭彦命だったことは、当時の人が仲哀天皇と応神天皇のあいだに断絶があると思っていなかったことを意味する。そして、大化の改新までは、だいたい30歳くらいになってから即位し、終身在位だった。だから、推古天皇が長生きしすぎたので聖徳太子の世代は飛ばされてしまった。兄弟でたらい回しすることもあった。

7世紀の推古天皇からは、女帝も現れた。それ以前に、神功皇太后が実質上の女帝として君臨したりしたようだが、いわば、零細企業の社長が亡くなって未亡人が女将さんとして経営に当たっていたようなものである。それが、文字が普及したので推古天皇からは、社長さんと呼ぶようになったようなものだろう。

また、皇極天皇からは生前退位が常態化し、若年の天皇も多くなったが、これは壬申の乱が天武天皇と持統天皇という夫婦と、持統の甥の大友皇子の戦いだったために、天武の子であるだけなく、持統の子孫であることが求められたためだ。

『系図でたどる日本の皇族』より

そして、やがて幼児の天皇まで出現し、天皇の親政は成り立たなくなり、政治の実権は母后やその実家から出る摂政・関白、天皇の父や祖父である上皇、ついで武士に移った。

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