日本銀行という組織は特別のようだ。その意志の表明方法は独特でなかなか理解できない。
10月16日、高松で、ある審議委員が発言した。
「極めて緩慢なペースで政策金利を引き上げていく」、「現時点で急ピッチな利上げを実施する必要はなく、拙速な利上げは回避するべきだ」 では、いつするの?と聞かれて「特に何月と意識しているわけではない」
(読売新聞、10月17日)
時期に関する曖昧さを突かれると「賃上げの動向を十分に見極める」と応じた。
来年の春闘の結着まで“やらない”とも受け取れるが、そうでもない。というのは“賃上げ動向”は既に始まっているからだ。目下の衆議員選挙の争点でもあるし、連合は中小企業も含めて5%の賃上げ目標を発表している。収益好調の企業は人材確保のためとして7%以上の賃上げを表明している。
後に紹介する翁邦雄氏の『新書』にも書かれているが、日本銀行の伝統的なスタンスは早目の金融引き締めだった。なにしろ“物価の番人”なのだから、景気が過熱しないうちに、物価上昇が行きすぎないように早目に金利を上げるというのが基本的、そして伝統的な対応だ。
こういう伝統を考えると、高松での発言もすぐにはやらないと言っただけ、と解釈できる。発言のあった10月16日の日経平均は730円の下げ。もっとも、世界最大手の半導体産業の悪い決算が伝わったこともあるが、近い将来の金利上げを読み込んで反応したことも否定できない。
本シリーズで述べたように、総裁は継続利上げを表明、それをすぐに副総裁が否定、そして審議委員という人達がそれぞれ発言。でも現時点(10月第4週)から振り返ると、ぼんやりした“統一見解”が見えるのかもしれない。10月22日に発表されたIMFの世界経済見通しでは、日本銀行の政策金利は「今後、徐々に引き上げられ1.5%に向かっていく」(読売新聞、10月23日)との見解が示された。
「金利のある時代」への復帰、そして、後に述べるが“黒田時代”からの脱却は、現在の日本銀行の願望であり、それを貫くことが“日銀の独立”を守ること、幹部はそう信じているのかもしれない。
構造変化
“金利のある世界”に戻したい。これは、理論家なら当然の発想だ。理論家の多い日本銀行のめざす基本方向もそれだ。露骨には言明しないが“黒田時代”が異常であったことは周辺の多くの人が認めている。“バズーカ砲”とか“異次元”とか、安定を求める中央銀行には似つかわしくない言葉の連発に、異常さはよく現れている。
しかし問題が生じた。異常が長期化したために株式・金融の世界に構造変化が生じた。構造とは、いったんできたら変化しにくい、変化するとしても時間がかかるような枠組みのことである。
株式市場の構造変化は、本シリーズの中心論点であるが“株式市場の金融化”である。
具体的には、金利のわずかな動きに株価が敏感に反応する現象が頻発することである。
「名もなき暴落①」で示した金融・証券の構造が、形式はそのままだが、実質的に変化してしまったのである。遊体貨幣の量は巨大になり、もはや収縮のメドもなく、中央銀行は宮中の門を自らこじ開け市中に飛び出し、ついには株式市場にまで関与し始めたのである。
もうひとつの変化は金融界、特に中小金融機関の行動パターンの変化である。彼らの主要な顧客・貸し出し先は地場・地元の中小企業であるが、長く続いたゼロ・低金利は貸し出しのインセンティブを著しく減少させた。ゼロに近ければ利鞘の幅もそれだけ小さい。本業は金貸し業だが、現状はそれらしくなくなってしまった。といっても、新しい分野は中小金融機関にはなかなか見つからない。
本シリーズに関連する限りでの中小金融機関(地方銀行、信用金庫)については、統計を揃えて次回に論ずる。
翁邦雄氏の新書
日本銀行の要人達、そして首相を含めた政治家の金融政策(金利政策)に関する発言が株式市場の乱高下をもたらした。この現象の背後にあるものを求めるのが本シリーズの目的であるが、この私達の関心からして注目すべき『新書』が出版された。
翁邦夫著『金利を考える』(筑摩書房、2024年10月)
この本にはエピローグが附され、そこで8月5日の暴落が論じられている。翁氏がこれを書かれたのは8月末とあるから、本シリーズの「名もなき暴落①」と時期は一致する。
以下、私のコメントを混じえて内容を紹介する。
問題にすべきニュースは三つ。それを日付と時間を入れて示す。
(1)短期金利の引き上げ発表 7月31日(水)12時56分
(2)今後の金融政策の方向について植田総裁の記者会見 7月31日(水)15時30分
(3)アメリカの景気指標の発表
・製造業景気指標 8月1日(木)23時(日本時間)
・雇用統計 8月2日(金)21時30分(日本時間)
翁氏の結論を要約すると、(1)は株価には無影響、(2)は影響したけど“さざ波”程度。暴落の主要因は(3)、ということになる。
コメント
(1)は事前に関係マスコミが予想していたとおりだったから影響しないのは当然。問題は本シリーズ「名もなき暴落①」で取り扱った(2)。7月31日の株式市場は始値から日経平均が1000円以上も高かった。短期金利の引き上げ幅が予想どおりと見たのである。
この日の変動幅は1200円程度。しかし引けにかけて下げ、終値は575円高(表1参照)、この時間、まだ(2)の効果は発現していない。
8月1日(木)。始値から一貫して下げ、一日の変動幅は1050円。終値は975円安。
つまり戻す場面はほとんどなかった。前日の引けの下げをプラスすれば1500円の下げ。
翁氏の“さざ波”は過小評価だろう。総裁発言が曖昧であっただけに、その解釈に市場は時間をかけた。タイムラグである。
そして8月2日(金)。朝から下げた。翁氏の理解は、7月31日の総裁発言は8月1日の相場が吸収していたから、この日の下げの要因はアメリカの製造業景気指標だというものだ。そして、8月2日、日本時間夜のアメリカ雇用統計が、週をまたいで8月5日月曜日に暴発したとする。アメリカ主犯説だ。
この説明にはいくつかの問題がある。アメリカの景気統計はこの二つだけではない(表2)。
表2 アメリカの主な経済指標
ジャンル | 経済指標 |
雇用関連 | 米国雇用統計 |
ADP雇用統計 | |
金融政策 | FOMC声明/議事録 |
フェデラル・ファンド金利(FF金利) | |
景気関連 | 国内総生産(GDP) |
ISM製造業景気指数 | |
貿易関連 | 貿易収支 |
物価関連 | 消費者物価指数(CPI) |
消費関連 | 小売売上高 |
個人消費支出(PCE) | |
消費者信頼感指数 | |
製造業関連 | 鉱工業生産指数 |
住宅関連 | 住宅着工件数 |
中古住宅販売件数 |
確かにそれは主要なものとして世界が注目しているが、大きなアメリカの景気判断はそれだけではできない。小売りの動向をみれば7月は市場予想0.4%を上回る1%増だ(6月の▲0.2%から改善!)。ここを譲って、問題の統計を見てみよう(表3)。
表3 アメリカ・ISM製造業景気指数の推移
データ期間 | 予想 | 結果 |
2024年7月 | 49.0 | 46.8 |
2024年6月 | 49.0 | 48.5 |
2024年5月 | 49.7 | 48.7 |
2024年4月 | 50.1 | 49.2 |
2024年3月 | 48.3 | 50.3 |
2024年2月 | 49.4 | 47.8 |
2024年1月 | 47.0 | 49.1 |
2023年12月 | 47.2 | 47.4 |
2023年11月 | 47.6 | 46.7 |
2023年10月 | 49.0 | 46.7 |
2023年9月 | 47.7 | 49.0 |
2023年8月 | 47.1 | 47.6 |
2023年7月 | 46.8 | 46.4 |
2023年6月 | 47.1 | 46.0 |
2023年5月 | 47.1 | 46.9 |
2023年4月 | 46.7 | 47.1 |
2023年3月 | 47.6 | 46.3 |
「8月1日23時・・・指数値は46.8と6月の48.5から低下し、前年11月以降8ヶ月ぶりの低水準」
(同上書、P.266)
しかし、指数46台は何度もあった。たとえば2023年3月 46.3、5月 46.9、6月46.0、7月 46.4、など目安となる50以下は頻発している。
確かに、2024年6月から7月の、48.5 → 46.8 の下げは比較的大きいが、他の国の株価暴落を説明する程ではないだろう。月次統計というのは一定期間の傾向をみてこそ意味があるものだ。これは、雇用統計も同様だ。
翁氏は8月2日の発表値11万4000人に注目したが、翌月では14万人増と月毎に変動がある。だから、これらの要因でアメリカの景気後退を説明することはできないし、まして日本の史上最大の暴落を説明することはできない。
翁氏の説明では、さらに疑問が拡大する。仮にアメリカの経済指標が原因だったとしたら、本家のアメリカより日本の株価の下げが大きかったことをどう説明するのか。翁氏もこのことは気になり、クルーグマンの「株の下落は不可解」というコメントを持ち出す。なぜ、ここでクルーグマンか?不可解である。
混乱
エピローグの冒頭に株価を導く式が示されている。これはどのテキストにもあるおなじみのものだが、そこにr(国債金利 + リスクプレミアム)が入っており、ここから「金利上昇のニュースは株価を下げる」(同上書、P.266)という命題が示されている。逆は逆だが現実に起こったことは、アメリカの利下げ(予想の2倍)で株価は上がらず逆に下がったのだ。
金利はあらゆる経済現象に関係する指標である。金利は各国ごとに成立するのだが、世界市場ではアメリカの金利が中心性を持つ。ドルが基軸通貨だからだ。
この傾向は日米関係でみると特に目立つのであるが、近年では追加の理由がある。日本の金利がゼロに近づいて動きがないから指標にならない。株式市場は量的に巨大だが、自らの動きを律する要因が内部にないから外部に求めざるをえない。内部にあるのは個々の企業の利潤の状況(EPSその他)だが、それは集計されてもミクロの集合体であり、マクロ指標ではない。
アメリカ主犯説なら、金利安 → 株高だから、日本の株価は上がるはずであり、暴落を説明することは到底できない。
AIが犯人とも示唆されている。「名もなき暴落①」で紹介したように今回の暴落で利益をあげた投資ファンドもある。AIの頭脳が秀れ、人間以上に見通しが効くなら8月5日の午後に買い、翌日に売った。8月5日より以前に売っておいて、暴落時に買い戻した。本当にそうなのか?
教訓
翁氏のエピローグが教えてくれた重要なことがある。それは日本銀行のプロパーの幹部(OBも含めて)が黒田時代に強い嫌悪感を持っていることだ。
「ひたすら自分の信念や意見を一方的に開陳し苦手な記者や答えたくない質問は無視する、という強権国家的な記者会見」
(同上書、 P.281)
これは黒田時代のことだろう。上田総裁はこれとは対極の対話重視だが、これがいまのところ裏目に出た。
日銀の知られざる、かつ驚くべき事実も書かれている。「現在の総裁記者会見は、記者の再質問を許さないという慣行が維持」されている。こういう暴露は日銀関係者にしかできない。
上田総裁は黒田氏によって後継指名された。だから就任当初は“緩和継続”を言明していた。でも、時の経過とともに日銀内部にある“黒田時代からの脱却願望”を感じとったのかもしれない。それは、自らの理論にも学者の良心にもかなうものだ。総裁自身が過渡期におかれているのかもしれない。それが発言の曖昧さになり翁氏のいうアンラッキーな結果となったのだろう。
実物経済への影響
株価は現時点(10月18日(金))で暴落前の水準に戻っている。翁氏の言うように一過性だったのかもしれない。しかし暴落前に買って、例えば年初に新NISAで買って、損をした人と、その後に買って得した人が同一人物とは限らない(同上書. P. 275)。
むしろ暴落であわてて売った人が翌日に買うのは心理的に難しいから、大きな損失、評価損が日本のあちこちに発生している。それは逆資産効果をもたらす。だから、いまでは済んでしまったことのような暴落が物を言いだすのはこれからなのである。
円安の長期化による原材料高もあって消費財価格は上昇し、それが消費を抑制している状況に逆資産効果が加われば、日本の景気が順調に回復するというシナリオを描くのは難しい。
日本の株式市場への不安視も名もなき暴落によって高まった。理由もわからず3日間で25%も下落した日本の株式市場に外国人投資家は警戒心を高めている。
暴落のマイナス効果はやがて姿を現すだろう。その時、名もなき暴落に人々が納得するような名前がつくかもしれない。
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