日本を含むG7諸国が、ロシアの凍結資産を活用したウクライナ支援の融資に踏み切ることについて、昨日の記事で書いた。
昨日は主に国際法の観点から書いてみたが、国際政治におけるこの問題のより重要な論点は、実は別のところにある。それは「信用」の問題である。
個人であれ、国家であれ、ある金融機関に自分の資産を預けるのは、その金融機関を信頼してのことである。その信頼には、たとえ自分が刑法犯になっても、なお金融機関が独自の判断で資産を没収することがないだろう推察が含まれる。民事裁判の結果としては、資産差し押さえがありうるかもしれないが、それはいずれにせよ民事裁判の結果の話になる。
信用取引は、資本主義経済の根幹を支える制度である。それが成り立たなければ、資産運用のみならず、貨幣経済でさえ崩壊する。
G7諸国が、ロシアに対する敵対政策の結果か、世界政府を代行して処罰を行う意図の結果か、いずれにせよロシアの金融資産の没収を行うことには、信用取引の前提を揺るがしかねない含意がある。
ロシアがG7諸国の領域内の金融機関に資産を預けていたのは、ドルやユーロで決済する商取引を円滑に行うためであろう。ドル基軸通貨体制そのものが、世界通貨としてのドルへの信用という無形の非制度的な価値によって作り上げられたものだ。
ロシアはそのドルへの世界的な信用を否定することができず、ドル建て資産を作って、商取引を行っていた。その前提は、金融機関が政治的な判断で資産差し押さえをする可能性は乏しい、という理解だとは言えるだろう。
しかしその前提が覆され、資産凍結と没収の対象になっているロシアは、どのような態度をとっているか。
「脱ドル化」の世界的な推進を、国家の外交政策として掲げるようになった。端的に言えば、「アメリカは信用できず、アメリカが管理しているドルは信用できず、ドルを基軸通貨にする前提で回っている世界経済の仕組みは信用できない」、という意思表明である。
ロシアは、すでに中国やインドとの間の大口の天然資源の取引の脱ドル化を実施している。中国は、自らのアメリカの制裁対象になったりしているため、ロシアの脱ドル化政策に歩調を合わせることに、関心を抱いている。インドもまた、脱ドル化が人民元の覇権ではない「多元化」である限り、自国の利益を見出しやすいので、歩調を合わせる。
この流れで、昨年から目立った加盟国数の拡大を始めたBRICSが、脱ドル化の政策を明示的に掲げるようになった。昨年に決定された拡大対象国が、中東諸国を中心としているのは、偶然ではない。ロシアは、中東における原油取引の脱ドル化の程度を高めることを目指している。
ロシアが昨年のガザ危機以降に一気に反イスラエルの立場を隠さない態度を取り始めているのも、こうした背景があってのことであるのは、間違いない。先月のロシアのカザンで開催されたBRICS首脳会議で決定された13カ国のパートナー国も、「脱ドル化」の政策の方向性を踏まえた戦略的な考慮の末に決定されていることが見て取れる。
アメリカもEUも常時数十件の一方的な単独制裁を運用しており、これは人類の歴史を見て、極めて稀有な状態である。トランプ前大統領は、自分が当選したら、制裁の数を減らして、100%関税を多用する、と宣言している。果たしてこれが功を奏するかは不透明だが、経営者出身の大統領候補として、「脱ドル化」の流れに強い警戒心を抱いていることは、間違いない。
アメリカの世界的覇権を支えているのは、強力な軍事力とともに、特別な信用が置かれているドルの強さである。そのうちの一つが欠けたら、世界的な覇権国としてのアメリカの地位は大きく減退するだろう。
しばしば誤解されているが、BRICSが目指している「脱ドル化」は、BRICSが標榜する「国際秩序の多元化」の一環として位置付けられており、人民元の基軸通貨化などといった発想とは、違う。
かつてフランシス・フクヤマは、冷戦終焉直後に「自由民主主義の勝利」を謳ってベストセラーとなった『歴史の終わり』の後の著作の題名に、「Trust(信頼)」を選んだ。
「信頼」とは、社会構成員が相互に、相手が責任をもって振る舞い、公共善にそくした行動をするだろうという期待のことである。経済上の繁栄の創出は、この「信頼」によって保証される。フクヤマは、国家が社会構成員間の自発的な「信頼」に介入して破壊を行うとき、経済も衰退すると予告している。
当時のフクヤマは、自由民主主義体制を擁護するために「信頼」の重要性を強調し、権威主義体制の限界を指摘しようとしていた。しかし現在の世界を見ると、自由主義諸国の信頼度がさらに高まったとは言えず、権威主義体制下で「信頼」を高める政策を実施できている国も多々ある。
自由を演説で語っていれば「信頼」が得られ、アメリカから批判されると「信頼」がなくなる、という単純なものではない。注意が必要である。
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「篠田英朗国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月2回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。