11月17日の兵庫県知事選が、再選をめざした前職の「ゼロ打ち当確」に終わり、世相が騒然としている。むろん、当選した斎藤元彦氏がパワハラ疑惑の渦中の人だからである。
刑事被告人のまま米国大統領選に勝利した「トランプを思わせる」とか、斎藤バッシングが主流だったマスコミを「ネットメディアが覆した」とか、様々に言われているが、個人的には違う視点が気にかかる。
疑惑の発端となった告発文書が、収賄罪(パーティ券の見返り)や横領罪(キックバック)につながる可能性のある指摘と、具体性を欠き違法性の不明な「盛った」悪口とが混在する、不透明なものだったのは事実らしい。
百条委員会(本年6月に設置)の調査が続く途中の9月に、県議会が知事の不信任決議を通したのも疑問を招いた。知事は①辞職(再選挙)か②議会の解散かを選べるが、②では百条委員会自体も消滅する。あえて①の道を行ったことで、支持者に「堂々の勝負」と受けとられた面はあろう。
すでに報じられているとおり、年齢が若い層ほど、今回の選挙では斎藤前知事に投票した割合が高い。で、以下の報道(ヘッダー写真も)が典型だけど、その理由は「TVでなくネットで情報を得る世代」として説明される。だいたいは、軽薄だとする批判のニュアンスを伴なって。
ほんとうにそうだろうか。正確には、「それだけ」だろうか。
2020年代の前半は、大手メディアがこぞって「これが正解!」と打ち出した風潮が、実際には誤っていた時代として歴史に刻まれる。日本に関するかぎり、自粛政策はウイルスに対してムダだった。世界的に見ても、ワクチンには副作用があり、ウクライナは戦争に勝てそうにない。
ウイルスとワクチンに関して、(とりわけ日本の)若年層は、全メディアが総がかりしての「大コケ」から最大の犠牲を蒙った世代である。さして怖くない病気のために外出を規制され、「思いやり」と称してワクチン接種も強いられた。
「みんながまちがっており、騙された」という体験は、無意識のうちに独特の共通感覚を、被害に遭った世代に育むことがある。典型はむろん1945年8月の敗戦だが、それが再来する危険について、ぼくはまだコロナ禍の最中だった2021年3月末の取材に、こう述べている。
コロナ禍でも似たようなショックを体験する世代が育つかもしれません。たとえば授業は教室で受けることが当たり前だったのに、急にオンライン授業になった。それまで「教室に来い! 真の学びはキャンパスにしかない」と言っていた教授たちが、ある日を境に突然「教室には来るな。勉強なんかネットでできる!」と言い始める。しかしコロナ禍が終息したら、またきっと「教室に来い!」と言うのでしょう(失笑)。
そうした手のひら返しの連続は、権威に対する不信を必ず増大させます。戦後で言えば教師たちの変節を目の当たりにして育ち、やがて「既存の権威への不信」を究極までこじらせたのが江藤淳(文芸評論家。1932年生)でした。きっとアフターコロナでも無数の「プチ江藤淳」が育ち、「大学育ちの学者は死ね。お前ら嘘つきの語る歴史なんか信じない」と罵声を浴びるようになるのではと、僕はいまから恐怖に怯えていますよ(笑)。
強調は今回付与
コロナでもウクライナでも、知的な権威だったはずの専門家がまちがえて、大手メディアの全体がそちらに引きずられた。そんなことは、少しでも自分の頭で考えていれば、すぐわかる。学歴も社会経験も関係ない。
コロナはあくまで擬似的な「戦争」で、ウクライナは遠いよその国の戦争だから、そうした失敗は、8月15日ほどには衝撃でないかもしれない。だがその分、意識せずには浮かび上がらない見えない敗戦として、心的外傷のような影響を残し続けないとも限らない。
今回の私の仮説の当否は、たとえば今後の選挙によって検証できるから、結論を焦る必要はない。ただし、それこそ「ワクチン」のように、前もって打つことのできる対策がある。
① メディアが自らのまちがいを省みて、原因を探ること。
② 専門家はそうした内省においてこそ、積極的に語ること。
③ 読者や視聴者は、どれほど自身の限界を認め、誠実に反省したかをもって、報道機関や言論人の真贋を見極める目を持つこと。
いまそうした作業は、行われているだろうか。
行わずに居直る勢力への報復が、今後さまざまな形をとるだろうと思う。今回の知事の再選に、一票を投じた世代の「ざまぁ!」の声を聴くとき、彼らの復讐はすでに感受されている。それこそが日本の暗雲である。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年11月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。