『ダライ・ラマ自伝』を通じてチベット問題の本質を学ぶことは、中国の侵略による民族文化の破壊や亡命生活の過酷さを理解する助けとなる。インドでの亡命生活から始まり、米国や日本を含む国際的な支援の重要性が描かれている。また、チベットの悲劇を教訓として、台湾問題への対応を考える必要性も提起されている。
『ダライ・ラマ自伝』(文芸春秋92年1月初版。以下『自伝』)を読んだ。偶さか入ったブックオフの棚で目に留まり、手に取って「目次」と「はしがき」を捲った。読んでみようと思ったのは「訳者あとがき」に、インドの専門家にしてなお下記の記述(要旨)があったからだ(本稿では同書の「ティベット」を「チベット」と、また「中共」を「中国」と表記する)。
インドの大学留学中の50年初め、着の身着のままのチベット難民が大塔の前で一心不乱に五体投地の礼拝をしている姿に思わず凝らしたことがあった。その10数年後、インドの奥深い農村で不可触民の実態を訪ね歩いていた際、数名の僧を囲んで読経するチベット村の人々の、インドの村で出くわす警戒と猜疑の目とは全く異なる、穏やかで柔和な人懐こい視線に出会った。
だがそれから今日まで、インドのチベット人、ダライ・ラマの存在、チベット本国の実情にも無関心で来た。チベットは中国によって旧態依然たる封建的農奴社会から解放され、新しい社会主義に脱皮しつつあると思い込んでいた。そう思い込まされることで、亡命チベット人と祖国との関係や運命について深く心を向けずに来た。その怠慢と無知を十四世ダライ・ラマ法王の自伝を読み、棍棒で叩きのめされるような衝撃をもって気付かされた。
チベットは野暮な遅れた社会から解放されたのではなく、野暮な侵略者の手によって併合され、情け容赦ない植民地攻撃と民族文化の破壊に曝され、民族の独自性、独立性を奪い取られ、民族の存亡そのものを問われているのである。そして日本人の大半、いや中国人も含め世界の大半がこのことに未だ全く気付いていない。
「はしがき」の日付は90年5月、日本語版刊行は92年1月だ。訳者山際素男の「あとがき」から更に30年余を経た今日、さすがにチベットが「中国政権によって旧態依然たる封建的農奴社会から解放」されたと思っている者は少なかろう。が、山際が書く侵略・併合の経過や民族文化の破壊どのように行われ、インドのダライ・ラマとチベット人が如何なる亡命生活を送っているか、また祖国の状況などを知る者は、筆者も含めて多くない。
第一章の書き出しを読むと、ダライ・ラマのチベット脱出は59年3月、23歳の時だった。中国は49年10月1日の国家成立直後からチベットの軍事侵略を開始した。ダライ・ラマは侵略からほぼ10年間、国民の政治的・精神的指導者として、中国との平和関係を復活させようと努力したが、それが不可能と判り、外から祖国同胞を支えようとインドに亡命した。
先般、尹大統領が戒厳令を発した韓国に北朝鮮が南侵し、朝鮮戦争が始まったのは50年6月25日だ。義勇軍を騙った中国人民解放軍は、同じ頃に北朝鮮に加勢して米軍主体の国連軍と本格的に干戈を交え始めた訳だから、毛沢東は東では朝鮮戦争を戦いつつ、西でもせっせとチベット侵略に励んでいたことになる。
35年7月6日生まれのダライ・ラマは今年数えで卒寿、解放軍が東チベットに侵入した時点ではまだ15歳の少年だ。この年に摂政タタ・リンポチェが辞任し、政治上の全権を引き継いだダライ・ラマはこの侵略を国連に提訴した。が、空しくも功を奏さなかった。
話は飛んで「今」のことになる。『読売新聞』が本年7月11日、「チベット支援の国際会議、東京で来年6月に初開催」と報じた。チベット亡命政府の立法機関である亡命チベット代表者議会の主催で、1回目の94年以降初めて日本で開催される。世界26ヵ国から議員や学者ら約90人が参加し、ダライ・ラマ14世がオンラインでスピーチするとある。
が、『読売』が載せた地図が頂けない。Wikipediaにある「旧チベットと現在の地図」に拠れば、旧チベットはチベット自治区のガリ(Ngari)・ウー(U)・ツァン(Tsang)およびカム(Kham)西半部、中国青海省のアムド(Amdo)中央部・北部・西部とカム北部、四川省西部のアムド東南部とカム東半部、甘粛省西南部のアムド東部、雲南省西北部のカム南部から成っていた。
ところが『読売』記事の地図にはチベット自治区だけしか記されておらず、それとほぼ同じ面積でありながら青海省(Qinghai)・四川省(Sichuan)・甘粛省(Gansu)・雲南省(Yunnan)の一部になってしまったアムド(Amdo)とカム(Kham)の一部が抜け落ちているのである。会議はチベット自治区ではなくチベットとチベット族の支援なのだから、『読売』の失態である。
もう少し「現在」の話を続ける。米議会系メディア『ラジオ・フリー・アジア(RFA)』はこの11月15日、トランプ次期米大統領がマルコ・ルビオ上院議員を次期国務長官に選んだことは「ウイグル族とチベット族に歓迎される」との記事を掲載した。
この人事にトランプの天敵ペロシ前下院議長も、12月10日にDCで開催された「国際チベットキャンペーン」での演説で、ルビオ上院議員を国務長官に選んだことは、次期トランプ政権がチベットにおける人権侵害をめぐり中国政府に圧力をかける超党派の動きを続けることの表れだ、と期待の弁を述べた。
自身キューバ移民の子であるルビオは18年、米国民のチベット入国を禁じる中国当局者の米国入国を拒否することを目的とする「チベット相互アクセス法(Reciprocal Access to Tibet Act)」を共同提案し、また20年にはダライ・ラマの転生に関するいかなる決定もダライ・ラマ自身とチベット社会のみに委ねられるとして、独自の後継者を擁立しようとする北京の目論見に反対するの「チベット政策支援法(Tibet Policy and Support Act)」の制定も推進した。
本年6月には「チベット相互アクセス法」の6回目の議会報告がなされたが、その詳細な報告書は国務省のサイトで誰でも読むことが出来る。こうした米国によるチベット支援が行われていることを、筆者も今回『自伝』を読んで湧いたチベットへの関心から、『RFA』や米国務省サイトを渉猟して初めて知った。
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『自伝』に戻る。が、それが執筆された90年まで30年間にわたる亡命生活を具に述べる紙幅はない。よって、筆者が目から鱗を落とした幾つかのトピックとそこからの教訓を記して稿を結びたい。
そもそも「ダライ」とはモンゴル語で「大海原」を意味し、「ラマ」は教師を指すインド語「グル」のチベット語で、ダライ・ラマ自身はそれを「自分が占めている職務への呼称だ」とする。「ラマ」に「活仏」を表す中国語「フォフォー」を当てたのは間違いで、チベット仏教ではある存在が何かの生まれ変わりの姿をとり得ることを認めているが、それは「トゥルク(化身)」と呼ぶ。
彼が3歳の頃、政府が派遣した新しいダライ・ラマの化身捜索隊が、お告げに導かれて彼の生地であるアムドの東端クムブムの僧院に現れた。お告げは摂政が「視た」三つのもの、即ち聖湖ラモイラツォの湖面に浮かぶ「Ah」「Ka」「Ma」の文字、紺碧屋根の三階建ての僧院、変わった形の樋のある家であった。摂政は「Ah」は「アムド」、「Ka」は「クムブムのK」と確信した。そして僧院の屋根は紺碧であり、ダライ・ラマの家の屋根には奇妙な松の枝が走っていた。
捜索隊は故十三世ダライ・ラマの遺品とその偽物とを持参していて、3歳の彼に選ばせたところ、ことごとく本物を選び、「それ、ボクんだ」といった。捜索隊は彼を「ダライ・ラマの生まれ変わり」と確信したのだった。斯くて39年2月、4歳のダライ・ラマ十四世は即位し、ラサに移り住み、6歳から本格的に法王としての勉学が始まった。
それから10年が経った50年10月、8万の人民解放軍がチベット東部カムに侵入してきた。北京は中国解放記念日にチベットの平和的開放を開始したとラジオで発表した。平和愛好のチベットでは軍への入隊は最低の生活とされ、兵士は人殺しと同様視されていたから、兵員は不足し近代的装備も訓練も無に等しかった。
英国を後ろ盾にインドが中国に抗議し、チベットも国連に仲裁を訴えたが無駄だった。そんな中、彼は2年繰り上げて世俗政権を引き継ぐことになり、お告げに従ってタタ・リンポチェが摂政を退き、彼の上級個人教師となった。その頃中国軍は生地アムドを席巻、クムブム僧院の僧院長だった長兄の活動を禁止して共産主義を吹き込んだ。彼らは長兄が弟を説得して中国の支配を受け入れさせるか、もしくは弟を殺すならラサに行かせてやろうと説いたのだった。
中国の暴挙を目の当たりにしていた長兄はラサに行って、弟ダライ・ラマや政府に警告すべきと考え、中国の申し出に同意したふりをした。何の知識も持たない15歳のダライ・ラマは、共産主義者は無宗教であるだけでなく、宗教活動に反対しているとの長兄の話を聞いて絶句、残された道は外国の支援を得、中国に武力で対抗するしかないと知り、恐怖に慄いた。
斯くて法王就任式を終えた彼は、政府要人と相談し米・英・印・ネパールに使節を送って仲裁を依頼し、中国へも撤兵交渉のため代表団を派遣した。が、50年暮れに解放軍が東部で兵力を強化していると知り、首相を除く政府主要メンバーとラサを離れ、ネパールとブータンに挟まれたインド領シッキムの近いトロモへと、320kmの脱出を敢行した。その際、ポタラ宮殿の地下金庫から金銀の延べ棒など財宝を詰めた50~60の箱も持ち出した。
半年後の51年5月にチベット解放17ヵ条協定を中国と調印し、8月にラサに戻る。が、10月にラサに進駐した解放軍は3千から2万に膨れ上がった。数千トンもの大麦の拠出を求められるなど食糧事情が悪化、チベット経済は破綻に瀕し、各地で活発化した反中国ゲリラで中国との関係が険悪となった。こうして59年3月にラサを脱出し、インドに亡命するまでの約9年間は、約1年間の北京訪問を含めて、中国軍監視下のラサで奇妙な共存が続いた。
インド亡命と同時に17ヵ条協定を否認し、インド北西部のムズリーに亡命政権「中央チベット政権(CTA:Central Tibetan Administration)」を設立した。CTAは60年北西のダラムサラ(「小ラサ」と称される)に移転し、今日に至っている。『自伝』執筆時(91年)までに、インド各地のチベット村に約10万人、その他外国に1万5千人が亡命した。
現在のチベット民族の人口は、「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」のサイトに拠れば約6百万人、その生業は遊牧民が48%、交易商人と農民が32%で、人口の約20%を占める僧尼(僧18%、尼層2%)はあらゆる階層の出身者からなっている。また世界のチベット亡命政権代表部事務所は、ニューデリー、ジュネーブ、東京、ブリュッセル、モスクワ、プレトリア、パリ、カトマンドゥ、ワシントン D.C、ロンドン、キャンベラ、台北、ブラジルの13か所にある。
亡命政権事務所には東京と共に台北の名がある。前述のルビオ上院議員が絡んだ米国のチベットを支援する国内法と同様、米国は上下両院超党派の数多の議員立法で台湾を支援するなど米台の絆は強固だ。チベットと中国の間には山岳だが道があった。が、台湾と大陸の間には台湾海峡という公海が横たわる。そこは日本の海外交易にとってチョークポイントだ。台湾有事は日本有事、台湾がチベットの悲劇に遭わぬよう、日本と日本人が覚悟を持つ必要を改めて実感する。