兵庫県の斎藤知事をめぐる百条委員会で主導的立場をとってきた元県議の竹内氏が精神的に追い込まれ自殺しました。報道を見る限り百条委員会に対する批判が委員である竹内氏に直接降りかかり、それに耐えきれず、家族ともども追い込まれたというのがストーリーのようです。
本件の詳細について私が知る故はありませんが、大局的にみるに一種の斎藤派とアンチ斎藤派の戦いで竹内氏は正義感をもってその闘いに臨んだものの徹底的に叩かれたということかと思います。
なぜこんなことになったのか、もう少し、俯瞰して考えてみたいと思います。
公務員は根強い人気の職種であります。また政治家でも地方議会の議員は国政の議員と違い、明らかに地元の声の代弁者的要素が圧倒的に高くなります。私が日本にいた時でも区議が冠婚葬祭からお祭りやイベントには足蹴く通い、名刺を配り、握手をし、一言挨拶をするのが仕事でありました。
公務員、英語ではpublic Servant とかCivil Servant になると思います。Servantは奉仕者という意味でCivil Servantだと公僕といった意味合いになります。では公務員の仕事の何が大変か、といえばすべての人を等しく扱わねばならない点にあります。もともとが住民の税金で給与が支払われているので住民に対して差別なく対応しなくてはいけません。ところが世の中、手間がかからない人ばかりなら良いのですが、面倒くさいことも年中起きるのです。そして公務員の仕事は住民のプライベートな部分との接点が非常に多いことも特徴です。学校の先生から民生委員まで生活や家族を公的支援を具現化するためのお手伝いをしてくれるわけです。
ところが市民には我儘な方もいるし、常識感がない方もいます。そういう方に多大な時間やエネルギーを使い、他の業務が滞れば一般の住民からは「おい、どうなってんだ!」というお叱りの声も出てくるでしょう。そういう意味では公僕ではなく僕(しもべ=召使)と勘違いしそうなこともあるのです。
議員の給与も住民の税金が源泉でありその上、選挙というプロセスを通じて選べられるわけですからこれまた広く住民には丁寧に接していかねばなりません。
私から見れば議員や公務員は商売人より平身低頭にならざるを得ない気がするのです。江戸時代、士農工商という身分制度では「士」は偉かったのですが、その背景はお国を護るという任務があり、決して好かれたわけではないにしろ、「士」があってのお国であり、時として農民が戦いに駆り出されるような仕組みでした。ところが現代社会を見ると「商工農士」、つまり順番がさかさまになったという気すらするのです。
役人や議員のやりづらいところの一つは業務の透明性があります。一挙手一投足なにかにつけてみられ、コメントされてしまいます。その場合、「君たちのやっていることは正しいのか?」という弾圧が起こりやすいとも言えます。現代社会はSNSを通じて発言者は自分をさほど開示しなくても相手のことは徹底的に責め立てることが容易になりました。責め立てる理由も理路整然としたものもありますが、噂話や話を想像して膨らませたものまでさまざまです。またストレス解消的な軽いノリの方もいらっしゃいます。責め立てられた時に不正確な事実に基づく話の対応を含め、精神的な重圧に耐えられるか、といえばよほどの精神力の持ち主かそういうことに慣れている方以外は厳しいと思います。
私から見れば公務員はかつての「給与は安いけれどクビにならないし定時に帰れるからワークライフバランスには最適」といううたい文句はもう通じなくなると思います。事実、学校の先生のなり手は激減しています。サーバントがサーバントの業務領域を超えてしまうとだれも公僕になどなりたくないわけで、社会の構造が崩れてしまうリスクを抱えているとも言えないでしょうか?
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2025年1月21日の記事より転載させていただきました。