やまがた洋館めぐり

2月中旬に旅した山形県。山形県には何度もいったことがあるんですが、実は県都・山形市は乗換えこそすれど観光したことはありませんでした。私は既に全都道府県制覇×2以上しているのですが、県庁所在地を観光していないのは山形市と前橋市だけ。

今回はこのうち山形市を訪ね歩くことにしました。山形市には私が好きな古い洋館が数多くあると聞いて訪ねてみたくなったのです。

山形県立教育資料館

最初に訪ねたのは山形県立教育資料館。明治34年に旧山形師範学校として建てられました。現在は県立山形北高校の敷地内にあります。

正門と、この門衛所は国の重要文化財に指定されている貴重なものです。

建物の中には入れませんが、この講堂はかなり年季の入ったもので歴史を感じさせます。

ルネサンス様式を基調とした木造瓦葺の建物。1階と2階の間にはコーニスと呼ばれる胴蛇腹の紋様を見ることができます。

内部は明治時代の教育の様子を再現した人形が飾られるなど、教育の歴史を展示した資料館になっています。

リニューアルされているもののかつて学生が学んだ様子を彷彿とさせる長い廊下。

古い建物だけでなく、かつての山形の公教育の様子を窺い知ることができる資料館でした。

文翔館

続いてやってきたのは文翔館とよばれる大きな建物。山形市の繁華街につながる道路の北端に位置しています。もとは県庁及び議会議事堂であり、明治末期に旧県庁が火災で焼失してしまったのち、大正5年に耐火構造のレンガ造り(一部木造)、ルネサンス様式の洋風建築で再建されたものです。

長きにわたり県政の中核を担ってきましたが、昭和50年に現在の県庁にその役割を譲り今は山形県郷土館「文翔館」として山形県の文化や歴史に関する展示を行っています。この時代の煉瓦造りの公共建物は珍しく、国の重要文化財に指定されています。

中央の時計塔は文翔館のシンボル。今も動き続ける時計塔としては札幌時計台の次に古いものです。1日30秒ほど誤差が出てくるため5日に一度メンテナンスをして時間を合わせているそうです。

エレガントな階段がお出迎え。

建物の中に入ってみます。今も郷土館として使っていることから壁は塗りなおされていてそこまで古さは感じません。

こちらは大正14年、皇太子(昭和天皇)が来られた際に会議場として使われた部屋と調度品です。この日のために新調された一部金塗りの高級感溢れる煌びやかな椅子が並びます。

そんな華やかな饗応の場がある一方、日々県政の方向性を議論する会議室も随所に置かれていました。ここは警察部長室。県の警察行政を司る場所であり、重厚感が漂います。

銀行のような施設は会計課。県民からの税の収受などの業務はここで行っていました。日々の経費の支払い業務もここで行っています。マネキンが当時の様子をリアルに伝えています。

部下「課長、うちでも楽々精算入れましょうよ コストは課長のお小遣いくらいだそうですよ!」
課長「やっすい!!」

なんていうことが話されていたかどうかはわかりません。

文翔館はかつて県議会の議事堂として使われていた建物ともつながっています。議事堂は今もイベントホールとして使われていてこの日は音楽イベントの準備の真っ最中でのぞくことはできませんでした。

外観はこんな感じ。大正時代、洋風建築がブームとなる最中に建てられた煉瓦造りの議事堂。かなりモダンでカッコいいです。この議事堂が使われたのはわずか15年しかなかったといいますが、今でも議事堂として使えるんじゃないかと思います。

まちなかの洋風建築

ハイカラな洋風建築が残る町、山形。民間で建てられた建物の中にもモダンな洋風建築が点在しています。

山形市の目抜き通りに一際異彩を放つ洋風建築があります。こちらは旧吉池医院。もとは眼科でその後代替わりすると皮膚科となりました。竣工は大正元年で先ほどの文翔館より先輩です。設計者は米沢出身の中條精一郎氏で、文翔館も彼が設計しています。

文翔館を建てるにあたり、試験的にこの医院を立てて様々なデザインを試したといわれています。そのため小規模ながら様々なデザインがこの建物に散りばめられています。残念ながら今は閉院してしまいましたが、閉院したのは令和5年。大正、昭和、平成、令和と4世代にわたって病院として機能し続けた建物です。

中をのぞいてみました。受付の窓口がなんともレトロ。今は基本的に中には入れませんが、山形市内の近代建築を使ったアートや音楽のイベントが開かれる際には中に入ることもできるそうです。

続いて訪ねたのはこの写真館。ライトグリーンのペンションのようなかわいらしい建物です。こちらは大正10年に建築されたもので戦時中は出兵する兵士の記念写真を撮る人で賑わったといいます。かわいらしい建物ですが重い歴史を刻む写真館です。平成7年に廃業しています。

済生館

最後に訪ねたのは済生館という建物。もともとは市街地にありましたが、今は山形城址・霞城公園の中に移築されています。この地を拠点とした山形の雄、最上義光の銅像の意気揚々とした姿が印象的です。

城址の南端に佇むこの建物が済生館。明治6年に建てられた私設の病院です。山形の近代化を目的に洋風建築が採用されました。

かつてこの建物があった場所には現在山形市立済生館という病院が建っていますが、それはこの初代済生館が老朽化し新たに建て替えられたものです。建て替えの際に初代済生館は壊される予定でしたが、保存運動が起こりこちらに移築されることとなりました。

この建物の特徴は1階はドーナツ状になっていて中庭を囲むように診察室が配置されています。2階は16角形の大広間、3階は8角形の小部屋がありました。夏の時期は1階の円状になった廊下で盆踊り大会があったそうで、何とものどかな時代だなと思います。

大正6年の部屋割り図。ユニークな構造の病院。

2階へはこの不思議な階段を使って移動する(写真は下り)。

16角形の2階の大広間に上がってきました。1階は医学的な資料や病院としての済生館の歴史を伝える資料が展示されていますが、2階は済生館の建物についての解説がされていました。

この先3階には螺旋階段を登っていくのですが、通常は立ち入り禁止。私たちが登ることはできません。法規制があるのか今の総合病院はどこも似たような構造になっていて建築的には面白味がありません。現代の病院の方が効率的で機能的なんだろうと思いますが、ときにはこんな斬新でどこか遊び心が感じられる部分があってもいいのではないかと思いました。

明治43年建築の聖ペテロ協会は登録有形文化財。

山形は洋館が多いと聞いてはいましたが、コンパクトな町のいたるところに洋館が残っていることに驚きました。他の町にも洋館はあったのでしょうが、壊されたものも多いと思います。そんな中で山形では古いものを大切に残し、活かしていこうという気概を感じました。

洋館好きの方はぜひ1日かけて山形の町を歩いて回ってみるといいと思います。


編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2025年3月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。