NHK党の党首立花孝志氏が暴漢に襲われ、1ヶ月の重傷を負った。
YouTubeのライブを観ていた私も、小学生のランドセルに付いてるような警報器のけたたましい音をきっかけに騒然とする現場の様子を観ていた。
ローンウルフと思われる犯人は、取り押さえられても、諦めのような表情で立ちすくむだけだった。

彼は正に「無敵の人」そのもので、彼の背後関係や家族関係も全く不明なままだったが、彼が青白い顔で諦めにも似た表情で立ちすくむ姿は、彼自身の人生を表していたと思う。
選挙運動中の暴力事件は、民主主義を冒涜する行為であり、許されざることだ。
私は犯人の人生に寄り添うとか、その情状を酌量しようなどと言いたいのではない。
犯人が事件後の人生を先読みすることなく、歪んだ正義感を斧に持ち替えた心情を慮るなどと書きたいのではない。むしろ、彼を生み出した背後を、我々、現在進行形で見つめる人たちが、邪推したり想像したりすることは無駄ではないとおもう、ただそれだけだ。

彼は、地上波や一部のSNSで実しやかに言われている、兵庫県議の自殺は立花孝志氏が追い込んだからだ、という情報を鵜呑みにしたと言うことらしい。しかも、明確な殺意も自供している。
冷静に考えれば、兵庫県議の自死を追い込んだのが立花氏だったとしても、それに対して彼が憤る理由はない。立花氏は千葉県知事選に立候補していて、犯人の出自が定かではないが、自死した県議の身内でもない限り、それほどの義憤にかられる合理的理由が見当たらない。
犯人は、怒る必要のないことの怒りに任せ、立花氏を襲ったのではないだろうか?
彼は、自己表現の方法として、社会悪と称される人に正義の鉄槌を下すことで、自身の存在意義を満たそうとしたのではないか?
彼が立花氏を殺害したとしても、彼が怒りを感じた元兵庫県議が再び蘇ることはないし、現在兵庫県を揺るがしている問題が解決するわけではない。
彼は、自己存在の、あるいは自らの存在理由を確かめる自己実現の手法として、怒る必要のないことに怒り、起こす必要のない事件を引き起こしたのだろう。
拙稿でも触れているように、現在、兵庫県では兵庫県政混乱の原因は立花氏にあるとする連中が、立花氏の演説にカウンター行動を起こしている。
例えカウンター行動を起こしたとしても、兵庫県政の問題は政治問題なのだから、カウンター行動そのものが県政を動かす原動力にはならない。
むしろ、カウンター行動を起こすことで、黒ずくめの怪しい集団が騒ぎ立てている異様な光景を作り出しているだけだ。それは見るものに奇異な印象を植え付ける以上のものはない。
かつての安倍元総理に対するカウンター行動と同じで、結果的に、このような異常な集団を敬遠する、イコール、立花氏の言動に注目が集まるだけのことだ。
実際、安倍元総理は憲政史上最長の政権を維持し、高い支持率を維持し続けた。
人にはそれぞれの正義がある。広く人々にその正義を主張するのは間違ってはいない。
ただ、自分の正義が通らないことによる暴言、暴力による威迫は民主主義とは言わない。
事実、カウンター行動を起こした連中が批判する兵庫県の斎藤知事は、二度の選挙で民意を得て県知事に選ばれている。これこそが民意の表れ、つまり民主主義そのものではないか。
私が激しく憤るのは、今回の事件のようなものを扇動した輩に対してだ。
しかも、このような事件後、自らは無関係を装ったフリして、SNSで情報発信を普段通り行なっている。
狂っているとしか思えない。
マスコミにしても、今の兵庫県問題で反県知事、反立花孝志を扇動し、社会悪の如きに仕立て上げる。そこには正義感は存在しない。
売女の女衒のような存在だ。
我々が批判すべきは、このような無責任な輩だろう。