戦後の日本は、いかにして「母性社会」となったか:『江藤淳と加藤典洋』序文②

エコーチェンバーという用語がある。同じ意見の人だけで集まり、「だよね~、だよね~」「当然でしょ!」と思い込みを増幅させあう様子を、こだま(エコー)の響く部屋に喩えたものだ。

男も女も、どの国の人でもエコーチェンバーにはハマりうるのだが、不思議なことに、なぜか人はそれを性別や国の風土といった「自然っぽいもの」の表われだと見なしたがる。だから最近は「ホモソーシャル」といって、男だけの飲み会ノリみたいなものに、エコチェンの基礎を求めがちだ。

だけどその前はむしろ、同じものを「母性原理」と呼んでいた。言われ始めたのは、1970年代。なのでなぜ日本では、場の空気に合わせるのが絶対かというと、「日本人の男はマッチョさを誇るときでも、実は父性原理ではなく母性原理で、男の価値観を女の手法で伝えるからだ」といった、ややこしい説明をしたりもしていた。

令和という幼年期の終り:「母胎回帰」だったコロナ・ウクライナ劇場|與那覇潤の論説Bistro
浜崎洋介さんとの文藝春秋PLUSは、おかげで多くの方がご視聴くださったようだ。とはいえ、ウクライナを応援することを「ウクライナに耳あたりのよいことを言うこと」と取り違えてきた人には、なかなか受け入れがたい内容らしい。 こうした反応が典型で、そもそも ”you are not winning” と言い出したのは私ではな...

母性社会論を広めた最大のスターは、心理学者の河合隼雄である。彼を批判した1997年の論考を、「女装した家父長制」というドキッと来るタイトルで銘打って、上野千鶴子氏は書いている。

誤解を避けたいなら、家族をメタファーとした「父性原理」「母性原理」のような用語法を使わず、簡明に「切断原理」「包含原理」……とでも呼べばよいのだが、「父性」「母性」の語が象徴的に持つ喚起力にかれ自身多くを負ってきたことはたしかである。
(中 略)
この「母」がメタファーであって現実の女性とは独立していることは、フェミニズムが久しく強調してきた。問題は、この「母」のメタファーが誰によって用いられているか、言い換えれば、「母性原理」による権力の行使を行っているのは誰か、ということである。河合はそれに対してすでに答えを与えている。

疑問の余地はない。日本もまた家父長制の社会である。ただその権力の行使が「母性」の名において行われている分だけ、「敵」の見えにくいやっかいな相手なのである。

『上野千鶴子が文学を社会学する』123-4頁
2000年の単行本より(文庫もあり)
強調は引用者

5/15に刊行する『江藤淳と加藤典洋』の帯を、その上野さんが書いてくださったのだが、実は草稿の時点で、けっこう厳しい批判をもらったりもしている。序論で母性社会論の系譜を整理するのはいいけど、「お前はそれをどう思うのか」がはっきりせんじゃないか、というのもひとつだ。

……で、初校が済んでいたのに「あとがき」を(半泣きで)書き直し、その批判に応えもしたのだけど、そちらは刊行後に楽しんでもらうことにして、突っ込まれた箇所を今回は紹介しよう。私の立場はともかく、戦後日本の輪郭を描くレビューとしては、簡潔に要を得たものと思っている。

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2. なつかしい母の話

日本人で、桃太郎の民話を知らぬものはいない。しかしなぜ桃太郎は「祖父母」のみで両親の居ない家庭で育ったのち、鬼退治に出かけるのか。それは父の権威が弱い――とくに敗戦後の――日本では、成熟のための「父殺し」を、家の外に出て行う必要があるからだ。

たとえばそうした解釈が、まず60年安保の騒擾に際して持ち出され、さらに10年後の大学紛争の読み解きとして広く知られた。

親ガチャと学生運動と桃太郎…葛藤なき家族のニヒリズム - 與那覇潤 | 教養動画メディア『テンミニッツ・アカデミー』
1970年代当時、過激化する学生運動を「桃太郎の鬼退治」という側面で捉えた土居健郎氏の『「甘え」の構造』。なぜ学生運動が鬼退治に似ているのか。その理由として挙げられているのは、「家父長的」な親の権威と「反抗期」「思春期」がぶつかりあった家庭内の葛藤が当時をさかいに薄れてきているのではないかという指摘である。そこで今、本...

70年代に不登校など、家からむしろ出ない若者が問題になると、原因を「母性社会」に求める認識はいっそう普及する。神との契約を守るかで正邪を峻別する父性的なキリスト教と異なり、「すべてがひとつとなって、主体も客体も、人間も自然も、善と悪とさえも区別がなく、すべて救われる」仏教は、「母なるものの宗教」だと説かれ出す。だから親離れも、子離れもできないというわけだ。

留意すべきことにこの時点では、母性原理の自他融合性を伝える比喩として、過去の戦争が持ち出された。全員が平等に死へと向かう玉砕の体験が放つ、歪んだ包摂感の魔力が、なお読者の記憶の片隅に息づいていたためだろう。

『母性社会日本の病理』(河合 隼雄) 製品詳細 講談社
必ずプラス・アルファがある河合隼雄の本! 「大人の精神」に成熟できない日本人の精神病理がくっきり映しだされる!! 心理療法をしていて、最近心理的な少年、心理的な老人がふえてきた、と著者はいう。本書は、対人恐怖症や登校拒否症がなぜ急増しているのか、中年クライシスに直面したときどうすればいいのか等、日本人に起こりがちな心の...

母なる文化の国日本の兵士は強かった。しかし、それは母性原理に基づく男性の強さであり、彼らは死に急ぐことにその強さを発揮したのである。

河合隼雄『母性社会日本の病理』69頁
強調は原文ママ

80年代には、同じものを指すメタファーが未来に向かう。情報化社会の進展はかえって、誰もが見たいものだけを見、知りたいことだけを摂取する、集団的な思考停止をもたらすかもしれない。自分のイメージさえもメディアに与えてもらう鏡像段階への退行は、始まりつつあったデジタル化になぞらえて、「エレクトロニック・マザー・シンドローム」と呼ばれた。

「逃走論」40年後の世界 浅田彰さんは今なお「逃げろ」と訴える:朝日新聞
 「逃げろや逃げろ、どこまでも」――批評家・浅田彰さんの1984年の著書「逃走論」は、老若男女に逃走を呼びかける不思議な思想エッセー集として大ヒットした。あれから約40年。人々の逃走は成功したのだろう…

元号が平成となった時代、彼らの予言は立証されてゆく。

学生運動は遠い過去となり、若年層の反抗心は社会的な逸脱へと向かわずに、むしろ庇護と報恩を重んじる体制志向の組織を作る。地元と家族をなにより優先し、マッチョさを誇りつつも「相手に不快感を与えないこと、好感を持たれること、もっとはっきり言えば、相手から愛されること」を第一に、「男性原理の価値規範を、女性原理の方法論で伝達、拡散する」風土が、改革が叫ばれた季節も草の根で保守政治を支えた。

日本のヤンキー化は小泉政権から?
斎藤:自民党は、もともとヌエ的な政党だったと思うんですが、完全にインテリ部分は消滅しましたね。與那覇:総理大臣でまんじゅうを出すとか、インテリには耐えられないセンスですよね。斎藤:小泉内閣時代が大き…

それを批判する知識人の言論も、戦後の秩序が「「偽物であることを自覚すること」(アイロニー)のコストを、被差別者(多くの場合女性的なものに比喩される)に預けるモデル」に陥り、出口を見失った。実効性のない綺麗ごとや、論敵を口汚く罵るだけの幼稚なふるまいすらをも、それでいいのだと甘やかし仲間うちで承認しあう「母子相姦的な構造」は、ある種のSNSからZINE(小冊子)まで、異論に対して閉ざされたサークルに浸透してゆく。

母性のディストピア Ⅰ ―接触篇―
敗戦の記憶は、日本人の想像力を母子相姦的な構造の中に閉じ込めた。映像の20世紀の臨界点、戦後アニメーションの3人の巨人は、この「母性のディストピア」にどう対峙したのか? 宮崎駿は「母」の胎内で飛ぶこと…

令和のいまは、どうだろうか。

示唆の深いことに今日、法制的には上皇の活動が「天皇時代に比べて大幅に制限される」裏面で、上皇后はほぼ「皇后時代と変わらない活動」ができるという。

『〈女帝〉の日本史』(NHK出版) - 著者:原 武史 - 原 武史による後書き | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
原 武史『〈女帝〉の日本史』への原 武史の書評。あとがきこのところ、日本では女性の政治家に関する話題が連日のようにテレビのニュースやワイドショーなどをにぎわしています。しかしその多くは、政治家としての品性や資質が疑われるというマイナスの評価を伴っているように思われま

もとより戦前の「大元帥」のような政治的決断者であることを、皇室に求める国民はもういない。しかし自ら決定できないものは、必然として自身の責任も負いえない。

だれひとり主体としては自立できず、したがって己の軌跡も振り返らず、回顧も内省もなしに集団としての自我に埋もれたまま、いつかすべてが忘れられて赦され、祈りの対象となる日を待っている――。

美智子上皇后の人気は民間出身の「皇太子妃」となった1959年から絶大で、天皇自身を含めたあらゆる皇族をしのぎ、「天皇制の皇后化」を推し進めたとも評される。元来カトリックの家庭の出身で、ハンセン病救済に尽くした神谷美恵子に学んだ道徳観も「「神ながらの道」とは対照的に、ナショナリズムを超え」ているから、憲法がうたう平和主義とも相性がよい。

『皇后考』(原 武史) 製品詳細 講談社
時代と社会の変容とともに「ありうべき皇后」像はあった――。血脈による正統性が保証された天皇とは異なり、人生の途中で皇室に嫁ぎ、さまざまな葛藤を克服するなかでその存在となる「皇后」。神功皇后や光明皇后ら、過去の偉大な皇后と感応しつつ、近代日本に時空を超えた皇后像を現出させ、さらにはアマテラスに自らを重ね合わせようとする貞...

だがそこには、奇妙な逆説がある。

包摂と忘却とは、本来なら別のことだ。しかし、そこまで秩序を象徴するものがすべてを包み込むと、かえって「私はまだ忘れていません」と公に述べることは困難になる。よほど強靭な意志がなければ、いまやかつて起きたことの責任を、問い続けることができない。

弱者に手をさしのべようとする優しい母性こそが、被害の記憶に基づき異議申し立てする主体を、例外的な「強き者」のみに限らせる。

そんな景色がウィルスとの擬似的な戦争や、海外での実際の戦争に接しても、誰もが見通しの「過ち」を振り返らずに無責任の体系でやり過ごす、2020年代の日本に広がっている。

戦時に誤りを発信した専門家に「軍法会議」はないのか|與那覇潤の論説Bistro
8月15日の終戦記念日にあわせて、前回の記事を書いた。実際には兵站が破綻しているのに「あるふり」で自国の戦争を続けさせたかつての軍人たちと、本当は(信頼に足る)情報なんて入ってないのに「あるふり」で他国の戦争を煽り続ける専門家たちは、同類だというのが論旨である。 とはいえまさか、ここまで即座に「そのもの」の事例が飛...

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二人の巨人と辿る戦後80年間の魂の遍歴 『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤 | 単行本 - 文藝春秋
二人の巨人と辿る戦後80年間の魂の遍歴 小林秀雄賞受賞の著者が放つ渾身の文芸批評。『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』『平成史』に続く近現代史三部作完結編。『江藤淳と加藤典洋 戦後史を歩きなおす』與那覇潤

参考記事:

昭和を忘れた日本人は、なぜここまで未熟なのか:『江藤淳と加藤典洋』序文①|與那覇潤の論説Bistro
いよいよ5/15に、新刊『江藤淳と加藤典洋』を出す。病気の後は対談を併録するなど、他の方に助けられて本を作ることが多いので、100%自分の文章のみの純粋な単著としては、2021年の『平成史』以来、4年ぶりになる。 前から書いてきたとおり、ぼくなりに戦後80年、昭和100年を受けとめた著作だ。そのメッセージが伝わるよう...
「紅衛兵」の時代がふたたび来るのか?(ニッポン放送・私の正論に出ます)|與那覇潤の論説Bistro
ニッポン放送の名物コーナー「私の正論」の収録に行ってきました。前々回の記事で村松剛に触れたタイミングで、彼の旧著と同じタイトルの番組からお声がかかるとは、奇縁を感じます。 1976年刊。 個人的には史論や文芸評論に比べて、 村松の正論(政論)はイマイチですが… 昨年末刊の『正論』2月号に寄せた「斎藤知事再選と「推し選挙...

(ヘッダーは、インドのDaily Excelsior紙より)


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年5月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。