『日本の名門高校 – あの伝統校から注目の新勢力まで –』(ワニブックス)の発刊を記念しての連続記事の5回目。
現在においても多くの高校が藩校の系譜を引くと言っているが、実は真実ではない。連続性が公式にあるものはないし、実質的になにがしかの意味があるものも少ないのである。そのあたりを本書に書かなかったことも含めて解説しよう。
江戸時代の藩校というのがどんなモノだったかというと、基本は四書五経に代表される中国の古典や史書だけである。武芸が加わることもあるが、兵学といったほどのものではない。

水戸の藩校 弘道館 Wikipediaより
数学も含めた自然科学系は皆無かそうでなくともごく例外的。物理学者として東京大学総長になった山川健次郎は、比較的に充実していたといわれる会津藩日新館で一三歳まで学んだが、算術などは軽蔑され、明治になってから九九を学んだのだと言うから水準の低さがよく分かる。
武士というのは、軍人であり、行政官であるはずだが、これでは、まったく役に立つはずがない。
磯田道史のベストセラー、『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』(新潮社)は、加賀藩で「算用方」をつとめていた猪山家が主人公なのだが、幕末の当主で明治政府にも高官として出仕した直之は、幕末という時代においてすら藩校で学んでいない。そこでの学問が加賀藩の財政部門高官として育つために実用性がなかったからである。あるいは、福沢諭吉も中津藩の藩校で学んでいない。
だから、のちに、明治になって、全く新しい学校制度と教科内容が、文明開化を実現するために、ほとんどゼロから出発している。
現在においても、多くの高校が藩校の系譜を引くといっているが、制度的には、明治一九年の「一県一中学校令」で各県にひとつだけの尋常中学にまとめられて、それまでの学校はとは断絶させられたし、教科内容についても、明治の中学校は文明開化のなかで「洋学」を学ぶためのものとして創立されたのだから、最初は外国人教師を高額の給与で招いたりしている。
このために、廃藩置県の直前に藩が洋学校を設立してそれが引き継がれた旭丘高校のようなケースを別にすると、教育内容において連続性はほとんどなかったのである。だから、水戸でも弘道館という全国的にも有名な藩校があったが、水戸第一高校とは沿革的につながらない。旧藩士による私立中学として命脈を維持した米沢興譲館高などは、その名を引き継ぐにふさわしいが、これは、例外的な存在である。
むしろ、明治政府によって設立された近代的な中学校を、あとになって、旧藩校と関連づけ、その精神を引き継ぐことを標榜したケースが多い。たとえば、私の母校の滋賀県立膳所高校は、明治三二年になって滋賀県立第二尋常中学として発足したものなので、膳所藩校遵義堂とは校地が旧藩校だという以上には何の関係もない。
ただ、それでも、「その精神を引き継ぐ」という方針が新たに採り入れられたのである。いってみれば、旧藩士による公立学校ジャック、そうでなければ、新しい旧制中学による藩校の伝統ジャックである。
だが、私自身は、膳所藩士の子孫でないし、古老たちから藩政についてのあまりいい話を聞いた覚えはないし、歴史の本でも悪い話が取り上げられることが多い藩だから、膳所藩校の伝統を肯定的にとらえなければならない理由が理解できなかった。
藩校を議論なく引き継いだ高校というのはほとんどない。だが、なにがしかの意味で縁を主張するものも多い。そんななかで、校名に組み込んだり、あるいは藩校成立の日を創立としている高校も多いが、それは、名を引き継いだ側の主観的な判断によるものであって、引き継ぐのにふさわしいかどうかについて客観的な判断がなされているのではない。
極端には、秋田明徳高校のように、戦後の新設高校に泊をつけるために、藩校名を借用したというのもあるが、こういうこじつけは感心しない。
だが、この藩校を継承したという名乗りは、意外な波紋を生じさせた。それは、その旧制中学や高校の卒業生に、精神的に旧藩士の系譜を受け継ぐという意識を持たせたことである。
いうまでもなく、士族が人口に占める割合は六パーセントに過ぎない。もちろん、士族の進学率は平民よりやや高いだろうが、たとえば、生徒の過半数になるというようなことはまずなかったはずだ。
さらに、江戸時代の殿様で地元の戦国大名出身は10家20藩ほどで、ほとんどが、外来者である。転封のたびにほぼ全員が引っ越ししてきたのであって、結婚などを通じての地元との交流もわずかだった。
つまり、生徒の先祖はほとんどが外来の武士によって支配された庶民であるし、別の県民性などをもっている。だから、藩政時代の歴史に否定的であっていいはずだが、藩校の後裔などと名乗る学校では、藩政への讃歌をたたき込まれる羽目になって、やがて、それが庶民まで含めた地域性になったのだから不思議なものだ。
典型的には、会津藩士は桜で有名な高遠から移ってきた、武田信玄にも仕えた信濃武士が主力で、会津魂というのは、信州人気質以外の何でもない。一方、会津の地の人は小原庄助さんに代表されるおおらかな福島県人であって、戊辰戦争の時も官軍に好意的だった。ところが、いまや、住民全員が白虎隊の子孫のように思いこむようになっているのだが、こうなった陰には日新館の流れと称する会津高校の存在が大きい。
逆に、新潟県の高田高校は、高田藩の藩校だった脩道館が私立になったり町立になったりしながら灯火を消さずに存続した珍しい例なのだが、校是は上杉謙信の「第一義」で、最後の殿様だった榊原さんの影は薄い。
福岡修猷館高校は、旧藩士たちが殿様から資金を引き出す口実に、藩校の名前を引き継ぐことを提案した。
熊本の濟々黌高校は藩校のような名前だが関係ないのだ。熊本藩には時習館という全国的に有名な藩校があった。濟々黌高校は、佐々淳行氏の祖父で代議士だった佐々友房という元熊本藩士が設立した私立学校を政治力で県に引き取らせたものだ。
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【目次】
はじめに 伝統の名門校から躍進する注目校まで
第1章 東京・神奈川の名門高校
第2章 関西の名門高校
第3章 中部の名門高校
第4章 東日本の名門高校
第5章 西日本の名門高校
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