
田沼意次(1719~88年)が蝦夷地開発に関心を持ったきっかけは、工藤平助の著作『赤蝦夷風説考』であったという。では、工藤平助とはどのような人物だったのだろうか。意外にその人物像は知られていないと思うので、本稿で簡単に紹介しておきたい。
工藤平助は紀州藩の医師、長井基孝の三男として生まれ、12歳まで紀州で育った。『仙台人物史』によれば、幼少期から抜群の才能を示し、13歳で仙台藩医・工藤安世(丈庵)の養子となり、医術を義父から、経史を儒学者の服部南郭から学んだという。
丈庵の家系は藤原氏に連なり、和気氏出身の名門医家・半井家を代々師として医業を営んでいた。丈庵の父は九州杵築藩の藩医で、丈庵は杵築で綾部絗齋に儒学を学んだ。父の死後、丈庵は上京して古義学の儒者として著名な伊藤仁斎の長男である伊藤東涯の門下となり、3年間師事したのち、江戸に移った。丈庵は伊藤仁斎の弟子である並河誠所らとの交流を通じて、蝦夷地開発に興味を持っていたらしい。
宝暦4年(1754)、21歳の工藤平助は養父丈庵の死去に伴い、工藤家300石の禄を継ぎ、仙台藩医として仕え始めた。この時期、平助は「周庵」を名乗り、剃髪して医師としてのキャリアをスタートさせた。しかし、平助の関心は医術に留まらず、儒学や蘭学、さらには実学全般に広がっていった。平助は江戸において多くの師友と交流し、蘭学のネットワークに入り込んだ。
平助の交友関係は幅広く、これを追うだけで、江戸の知識人たちの文化圏が見えてくる。平助は儒学者、蘭学者、医師など多様な人物と親しく交流し、その人脈を通じて海外の知識や文物に触れた。
儒学に関しては、工藤平助は青木昆陽や服部栗斎などに師事している(『仙台人物史』)。甘藷(サツマイモ)の普及で知られる青木昆陽は八代将軍吉宗の命によりカピタン(オランダ商館長)や通事(通訳)から蘭語(オランダ語)を学んだ人物であり、平助は昆陽から儒学だけでなく、蘭学の知識も吸収したと思われる。
加えて工藤平助は、医学を野呂元丈や中川淳庵から学んだ。野呂元丈は青木昆陽と共に、吉宗から命じられて蘭語を学んだ蘭学の先駆者である。中川淳庵は杉田玄白に医学書『ターヘルアナトミア』を紹介して、玄白らと共にその翻訳作業(『解体新書』、安永3年〈1774〉刊)に参加した人物である。
大槻玄澤(磐水)の長子、大槻玄幹が記した「磐水先生行狀記」によれば、工藤平助は青木昆陽の弟子である前野良沢とも交流を持った。前野良沢は『解体新書』の翻訳者として知られる蘭学者である。良沢の翻訳事業は、平助の海外への関心に影響を与えたであろう。
工藤平助より17歳年下の桂川甫周は、明和9年(1772)頃、築地に居住していた時期に、同じ築地にある平助の家に頻繁に出入りし、親密な関係を築いた。甫周は幕府の奥医師で、『解体新書』の翻訳にも携わっている。また甫周は、船医として来日したスウェーデンの医師・植物学者ツンベリから医学や植物学を学んでいる。平助は甫周を通じて西洋の学問や文物に触れたであろう。
工藤平助は安永9年(1780)に前野良沢のもとで大槻玄沢(磐水)と知り合った。玄沢は仙台藩の支藩一関藩の医師で、蘭学修行のために杉田玄白と前野良沢に弟子入りした。前掲の「磐水先生行狀記」によれば、安永9年(1780)、玄沢の遊学期間の終わりが迫っていることを良沢が惜しんでいるのを聞いた平助は、主君である仙台藩主伊達家を通じて一関藩主田村家に遊学延長を働きかけ、これによって玄沢の学問は大いに進んだという。
さらに天明6年(1786)、平助は本藩である仙台藩医への昇進を推薦するなど、玄沢のキャリア形成に大きく貢献した。これがきっかけで、平助と玄沢は親戚付き合いをするようになった。こうした平助の支援もあり、玄沢は『解体新書』の改訂や蘭学入門書『蘭学階梯』の著述など、蘭学者として大いに活躍することになる。
工藤平助と同じく仙台藩出身の林子平とは、子平が江戸に来た際には工藤家に逗留するほどの仲であった。『仙台人物史』によれば、子平が海防書『海国兵談』を執筆しようとするのを平助は諫めたが、子兵の熱意に動かされ、資金を提供し序文も執筆した。
以上の交友関係を通じて、工藤平助は蘭学や海外情勢に関する知識を蓄積した。特に、蘭学者たちとの交流は、平助の代表作『赤蝦夷風説考』の執筆に直接的な影響を与えたと思われる。ただし、平助自身が本格的に蘭学を修めた形跡は認められない。平助は物珍しい知識を広く浅く摂取する器用貧乏的な人物だったのだろう。この点、平賀源内に通じるところがある。
こうした工藤平助の幅広い交際を支えていたのは、莫大な財力である。大槻磐水の孫である大槻修二(如電)が明治期に記した平助の小伝(『南紀徳川史』所収)によると、平助は傍らに千両箱を置き、「これを持ち上げられる者がいたら進呈しよう」と豪語したという。江戸時代後期の儒学者である斎藤順治(竹堂)が記した平助の小伝(『事実文編』所収)は、平助が博徒の類であっても来訪を歓迎し、常に食客を抱えていたと記す。
工藤平助の蓄財の背景としては、長崎のオランダ通事で医師でもある吉雄幸作(幸左衛門・耕牛)との交友が重要である。平助の娘あや子(只野真葛)の随筆『むかしばなし』によれば、幸作は貴重な蘭書である『ドニネウスコロイトフウク』(レンベルトゥス・ドドネウスの『紅毛本草』)を送るなど、平助にヨーロッパの文物を紹介した。
平助はワインや酒器などの文物を蘭癖(オランダかぶれ)大名や富裕町人に売りさばき、巨額の富を得たという。吉雄幸作と工藤平助は手を組んで、ヨーロッパ商品の売買というビジネスに進出していたのである。
また平助は富裕者の訴訟を代弁して、多額の収益を得たという。これは平助の弁論能力が優れていたからというより、平助が政界とのパイプを持っていたことに起因しよう。平助は、田沼意次の側近である三浦庄司と親しかった。工藤平助もかつての平賀源内と同様に、田沼の賄賂政治に連なる「山師」であった。






