
今年に入って2回、お会いした相手から「江藤淳のこの文章、いまこそ大事ですよね」と切り出されて、驚いたことがある。ひとりは『朝日新聞』で対談した成田龍一先生で、もうひとりはいまアメリカで取材されている同紙の青山直篤記者だ。

文章とは、江藤の時評で最も有名な「「ごっこ」の世界が終ったとき」。初出は『諸君!』の1970年1月号だった。長らく手に入りにくかったが、いまは文藝春秋が復刊した『一九四六年憲法 その拘束』に収められているので、気軽に読める。
「ごっこの世界」については、ウクライナ戦争を踏まえた新しい読み方を、1月にこのnoteで紹介している。そのぼくも、成田さんも青山さんも、注目するのはまったく同じ一節である。

自己同一性の回復と生存の維持という二つの基本政策は、おたがいに宿命的な二律背反の関係におかれている。
自己回復を実現するためには「米国」の後退を求めなければならず、安全保障のためにはその現存を求めなければならない。
沖縄の返還はこの二律背反をかならずしも解決しないのである。
『一九四六年憲法』149頁
(改行と強調は引用者)
「沖縄の返還」は、2年後の1972年だった
「自己同一性」には、アイデンティティとルビが振ってある。なんと文中で自己同一性と記すたびに、毎回同じルビをつけているあたり、江藤がいかにこの概念に憑かれていたかがわかる(当時の日本では、まだ珍しい語彙だったのもあるが)。
冷戦の終焉(1989年)とともに始まった平成は、「親米保守ひとり勝ち」の時代だった。日米同盟を ”こっちから” 捨てるなんてあり得ない以上、それも含めて日本のアイデンティティでしょ? と、ナチュラルに思えたから、江藤の指摘する「二律背反」は忘れられてきた。
ところが令和に入り、第二次トランプ政権がウクライナを見放すさまを見た結果、”あっちから” 捨てられる可能性がにわかに目に入って、色んな人がパニックになっている。文字どおり、『江藤淳は甦った』わけである。

ウクライナの現実に照らすとき、より深刻に浮かび上がる文章も、同じ論説に江藤は記している。安全保障に比べれば、アイデンティティなんて気持ちの問題でしょ? という批判を先取りして、江藤は「これは政治論ですらなく、単なる感情論にすぎないともいえる」と、率直に認める。
だが、と続く箇所こそが本題で――
しかし実は、それはまさに感情の問題としてこそ重要である。
人は生存を維持するために、あえて自己同一性を抛棄することもある。しかしまた自己同一性の達成を求めて自己を破壊することもある。
そして現代の政治は、単に人間の理性だけでなく、このような衝動を内に秘めた全体としての人間を相手どる必要に迫られている。
152頁
ロシアをボコボコにするはずが、いまやゼレンスキーが池乃めだか的に「これぐらいにしといたるわ!」で講和する以外、戦争を終える道はない。しかしそれでは自己同一性(アイデンティティ)が立たないために、ウクライナは抗戦を続けて自己を破壊しつつある。
ハマスはむろん、イランでもイスラエル(と米国)に勝つ目はないが、彼らもまた生存より自己同一性を取るだろう。現代の政治は、センモンカが口を挟むTVニュースの表層よりも遥かに、人間の深い部分が動かしている。

ところが、そうわかると出てくるのが「うおおおお戦争は勝ち負けや生死じゃない、正しさだ! 彼らの自己同一性に寄り添う私を見て!」な人である。気持ちに寄り添うのはケアラーの仕事で、別に国際政治学の「専門」じゃないのだが、なぜかメディアはセンモンカと呼び続ける。
勝利を願っているのか、玉砕を讃えているのかも傍目にはわからず、もはや応援団にすらなっていない。なのでウクライナ浪漫派という呼称を作ったが、その問題点も江藤はすでに書いていた。

やはり「ごっこの世界」にいわく――
わいせつとは、超えがたい距離が存在するという意識と、それにもかかわらずそれをこえて自己同一化をおこないたいという欲望との組合わせから生じる状態だからである。
性交そのものはわいせつではないが、性交をのぞきながら自分が性交している幻想にひたるのはわいせつである 。
144頁
自己同一化のルビは、
「アイデンティフィケーション」
芸術上の性描写と、いわゆるポルノの違いは、描かれる性行為を「自分がやっているかのように」感じさせることを主目的とするかにある。もっとも、ポルノとして作られても芸術的な作品があるように、その目的で作られてはいないものを勝手にポルノとして消費することも起きえる。
もしいま「「ごっこ」の戦争が終ったとき」という論説が書かれるなら、戦争そのものは猥褻ではないが、戦争をのぞきながら自分が戦争している幻想にひたるのは猥褻である、となるだろう。寄り添い手と本人、代弁者と当事者のあいだに「超えがたい距離が存在する」のは、自明だからだ。
ウクライナものはもう旬が過ぎて「ホットイシュー」じゃないから、専門家の分析の正誤なんて検証しない、と居直る業界人は、戦争を「稼げるポルノショー」くらいに思っている。ポルノでない作品の俳優のようには、誰もポルノスターに演技力なんて求めてないでしょと言わんばかりだ。

拙著『江藤淳と加藤典洋』を踏まえた、浜崎洋介さんとのYouTubeの後編では、かくも冷徹な指摘をしたはずの江藤自身の限界も含めて、いま、あるべき日本と世界の関わり方について議論した。
浪漫主義に陥り、勝手に当事者になり代わらずとも、困難な現実から目を逸らさずに、共感を持って世界の課題を語ることは十分にできる。「猥褻さ」から遠く離れた、本来の論壇とはどういうものかをぜひ見てほしい。
書かれてから半世紀を超えて初めて、「このことだったのか!」と真価がわかる言葉がある。それが連なった書物を古典、その新たな読み解きを批評と呼ぶ。いま私たちが必要とするものは、日々使い捨てられては消えるポルノ広告のような、「ホットイシュー」やバズりとは対極にある。
参考記事:1つめはいよいよ、今週水曜です!



(ヘッダーは、ラジオ・フランスの番組より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年6月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。






