オリンピックを見ていて、理解に苦しむことの1つが、プロレスが公式種目となっていないことである。我が国は来年9月に開催都市が決まる2020年オリンピックの東京招致を目指している。私は提言したい。2020年の東京オリンピックではプロレスを公式種目にするべきだ、と。
これはプヲタ(プロレスオタク)の遠吠えではない。オリンピック批判、平和ボケした日本社会への批判であり、暴論のような正論である。
最初に言っておく。私はオリンピックが嫌いだ。商業主義、平和ボケの象徴である一方で、参加することに意義があると言われているのにも関わらず、金メダル礼賛主義に走るのはいかがなものか。オリンピックは矛盾でできている。ただでさえ、節電だと言われる中、また企業競争が激しい中、徹夜して観戦する人がこれだけいるのは理解に苦しむ。
そんな私ではあるが、もはやポイントの取り合いと化した柔道、誤審を繰り返す体操の様子を見ていて、怒りがマックスに達している。
あえて、プロレスを公式種目にすることこそ、現状のスポーツに対する警鐘になるのではないだろうか。
「プロレスなど八百長だ。そんなものをオリンピック種目にするわけがない。」
とお怒りの方もいることだろう。
そんな方に言いたい。あなたはとっくに思考停止している。
ぜひ、今のプロレスを見てもらいたい。プロレスが、真剣勝負であることに何の疑いも持たなくなることだろう。プロレスとは、闘いを演じるライブスポーツエンターテイメントである。
あなたはプロレスのリングに上がったことがあるか?私は、ある。今もリング復帰に向けて、トレーニングを続けている。学生時代にプロレス研究会だったのだが、あのリングで受身をとり、ロープに飛んで戻ってくるだけでもかなりの体力を消耗する。私の得意技はバックドロップだったのだが、綺麗に弧を描くためには、それなりの体力と訓練が必要なのである。つまり、あのリングの上で、技を受け、かけるという点において、プロレスは真剣勝負なのであり、フィギュアスケートや体操と同様に、スポーツ性があるのだ。
プロ野球や大相撲のように賭博が行われることがないという点においても、プロレスはクリーンである。大相撲のように、八百長が行われることもなく、プロレスはいつも真剣に闘いを演じているのである。
5カウント以内の反則が許される点が批判されるが、サッカーにもイエローカードという制度があるように、反則がある程度許容されているスポーツは他にもある。そのサッカーではちょっとのタックルで選手は倒れて悶絶するが、プロレスは椅子で叩かれたくらいではびくともしない。ここに強さの探求がある。
柔道などは欧米では「ジャケットレスリング」と訳され、もはやポイントの奪い合いゲームと化している、闘争心をなくした柔道と違い、技もダイナミックそのものである。
「暴論にしか聞こえない。オリンピックを、スポーツをバカにするな」
という声もあることだろう。
違う。
そもそも、いまどきのスポーツは、オリンピックは立派なものなのだろうか?選手の選考方法に問題はないのか?最高の選手がオリンピックに出ているだろうか?学校や企業の宣伝の道具にされ、セカンドキャリアも保証していない今の仕組みは健全か?アスリートが明日ニートになりかねないのが、日本のスポーツ界である。審判はまともなのか?勝つことがメインとなり、本来スポーツが持つダイナミクスが失われているのではないか?そもそも、選手は国を背負っているという気概があるのか?私はオリンピックはお祭りであり、参加することに意義があると考える方なのだが、仮に勝つことを目的とした場合、そこに強さへのあくなき探究はあるのか?
「プロレスをオリンピック種目に」
という暴論のような正論と向きあってこそ、現状のスポーツの問題が見えてくるのだ。オリンピックはまともなのか?スポーツはクリーンなのか?今一度、皆さんに問いかけたいのだ。