
田沼意次(1719~88年)の蝦夷地(現在の北海道)開発計画の発端となった工藤平助(1734~1801年)の著作『赤蝦夷風説考』は、天明3年(1783)に完成した。同書は、ロシアの東方進出の歴史や北海道・千島列島・カムチャツカ半島・ロシアの地理的位置について正確に記述した初めての日本語文献として評価されている。
では、工藤平助は『赤蝦夷風説考』を執筆するにあたって、ロシア情報や蝦夷地情報をどのようにして入手したのだろうか。
平助はオランダ語ができなかったが、広範な人脈と情報収集能力を駆使して同書を執筆した。平助は仙台藩の医師として活躍しながら、長崎のオランダ通詞(通訳)、蘭学者、松前藩関係者など、多様な人物との交流を通じて、海外情勢や北方地域の情報を収集した。本稿では、平助がこれらの情報をどのようにして入手し、『赤蝦夷風説考』を完成させたのかを紹介したい。
1. 平助の広範な知的ネットワーク
工藤平助は、仙台藩の医師でありながら、その活動範囲は医学に留まらず、蘭学、地理学、海外情勢への関心にまで及んだ。
彼の長女である只野真葛の随筆『むかしばなし』によれば、平助は20代半ばからその名声が広まり、30歳前後には長崎や松前といった遠方からも弟子入りを希望する者が訪れるほどの評判を得ていた。この名声は、平助の社交的性格と、多様な分野の知識人との交流に基づくものであった。
平助の交友関係は、蘭学者(前野良沢、大槻玄沢、桂川甫周)、長崎の通詞(吉雄耕牛)、さらには松前藩関係者(湊源左衛門)など、幅広い層に及んだ。これらの人物との交流を通じて、平助は長崎や蝦夷地を訪れることなく、江戸にいながらにしてロシアや蝦夷地の詳細な情報を入手することができた。
蘭学者のネットワークと松前藩関係者からの情報が、『赤蝦夷風説考』の執筆に決定的な役割を果たしたのである。
2. 蘭学者および長崎通詞からの情報入手
平助がロシア情報を得る上で最も重要な役割を果たしたのは、長崎のオランダ通詞である吉雄耕牛(幸作、幸左衛門、1717-1794)との交流である。
耕牛は、長崎出島のオランダ商館長(カピタン)が江戸に参府する際に随行する通事として活躍し、蘭学の知識を日本に広めた第一人者であった。耕牛が江戸に来ると、平賀源内、杉田玄白、前野良沢らは耕牛の宿舎を訪れ、西洋知識の摂取に勤しんだ。平助もまた耕牛と親密な関係を築き、耕牛の弟子3人が平助の門下に入るほどであった(只野真葛『むかしばなし』)。前回紹介したように、耕牛は顔の広い平助を介してヨーロッパ商品を江戸で売りさばいていた。
平助は耕牛を通じて、オランダから伝わった貴重な蘭書を入手した。特に、『赤蝦夷風説考』の執筆に直接影響を与えたのは、以下の2つの蘭書である。
◎『ゼオガラヒー(Geographie)』:ドイツ人のヨハン・ヒューブネル(Johan Hubner、1668-1732)が著述した地理書のオランダ語訳で、明和8年(1771)に本木良永と松村元綱によって『阿蘭陀地圖略説』として翻訳されていた。
◎『ベシケレイヒング・ハン・ルュスランド(Beschrijving van Rusland)』:ヤコブ・ブルーデルが編纂し、1744年にヨハン・ブルーデルによって出版されたロシアの歴史・地誌に関する蘭書。安永7年(1778)にオランダ商館長のフィート(Arend Willem Feith)が日本に持ち込んだこの書を耕牛が翻訳した。それを買い上げた福知山藩主の朽木昌綱は前野良沢に下賜したと言われる。
これらの蘭書は、平助がロシアの歴史や地理、カムチャツカや千島列島の状況を理解する上で重要な資料となった。特に『ベシケレイヒング・ハン・ルュスランド』は、ロシアの東方進出の歴史や交易の詳細を記述しており、平助がロシアの南下政策や蝦夷地との関わりを論じる際の主要な情報源となった。
ただし、平助はオランダ語を読めなかったので、「鴻学の士」の翻訳に基づいて両書を読んだという(『赤蝦夷風説考』下巻)。この「鴻学の士」とは耕牛の他、蘭学者の桂川甫周・大槻玄沢らであったと考えられている。
3. ベニョフスキー情報の影響
さて平助がロシア情報に強い関心を抱くきっかけとなったのは、明和8年(1771)にモーリッツ・ベニョフスキー(Maurycy Beniowski)が日本に伝えた情報である。
ベニョフスキーはハンガリー出身の軍人で、ロシアに捕らえられていた。彼はカムチャツカに流刑されていたが、仲間とともに脱出し、ヨーロッパに向かう途中で奄美大島に寄港した際、長崎のオランダ商館長を通じてロシアの蝦夷地侵略計画を書簡で幕府に伝えた。この情報は幕府によって無視されたが、吉雄耕牛をはじめとする通詞や蘭学者の間で広まり、平助も耕牛を通じてこの情報を入手したと考えられる。
平助はこのベニョフスキー書簡によってロシアに対する関心をかき立てられ、やがてロシアとの交易の可能性や蝦夷地の開拓の重要性を説くに至るのである。
4. 松前藩関係者からの情報入手
平助が蝦夷地情報を得る上で重要な役割を果たしたのは、元松前藩勘定奉行の湊源左衛門である。源左衛門はその経歴ゆえに、松前藩の内情や蝦夷地の交易事情に精通していた。
源左衛門は、豪商飛騨屋のアイヌ交易におけるトラブルに巻き込まれて松前藩を追放されており、松前藩を恨んでいた。源左衛門は、大坂に蝦夷錦などの蝦夷地の物産が豊富にあり、それどころか蝦夷地の詳しい地図まで流通していることに驚き、その地図を入手しようとしたが失敗したというエピソードを、田沼派の幕府勘定組頭である土山宗次郎に語っている。
源左衛門の情報によれば、蝦夷地では「おろしや」(ロシア)や他の異国人との交易が行われており、莫大な利益を上げていたが、松前藩の管理が不十分で、諸国の商人が内々に参入し、抜荷(密貿易)が行われていた(内閣文庫「蝦夷地一件」)。
平助は、松前出身の弟子・前田元丹(玄丹)を通じて源左衛門と知り合った。元丹は松前で育ち、平助の名声を聞いて、紹介状も持たずに飛び込みで弟子入りした人物である(『むかしばなし』)。源左衛門の情報は、平助が蝦夷地の交易やロシア人の活動の実態を把握するのに役立った。
さらに訴訟に長けた平助は、松前藩の訴訟処理に関わる松前藩の用人からしばしば相談を受けており(『むかしばなし』)、松前藩の内情や蝦夷地の交易事情、ロシアの南下の様子について詳しい情報を得ていたと考えられる。
5. 結論
工藤平助は蘭学者の協力の下、蘭書によってロシアの歴史や地理を把握し、松前藩関係者から蝦夷地の交易実態や松前藩による管理の不備に関する情報を得た。そして、これらの情報を『赤蝦夷風説考』という著作に統合し、蝦夷地の開拓やロシアとの交易の重要性を論じた。この情報収集の過程は、平助の広範な人脈に支えられており、彼の経世家としての能力を象徴している。
ただし、蝦夷地情報に関して、松前藩に恨みを持つ湊源左衛門に専ら依拠した点は弱点と言える。情報源の偏りは否めない。この点は幕府も同様で、田沼意次の蝦夷地開発計画も、現地情報を湊源左衛門に依存する形で開始した。したがって現地の実態を正確に把握するため、蝦夷地に調査隊を派遣する必要があった。次回は天明の蝦夷地調査について紹介したい。






