
イラストAC
僕は、邪馬台国論争は現段階では結論は出ないと考えています。魏志倭人伝でも考古学でも決定的証拠はないからです。
1つの可能性として「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」を提示します。邪馬台国は大和にあったけれども、倭国の王都は奴国(博多)であり、卑弥呼は博多にいたという説です(東遷ではなく、九州の倭国と大和の邪馬台国が同じ時代に並存したと考えます)。

詳しい根拠や出典は僕のnoteで説明していますが、ここでは概略を紹介します。

女王国と邪馬台国は別の国
一般的には、魏志倭人伝に登場する「女王国」(卑弥呼の都)と「邪馬台国」はイコールだと認識されています。もしそうだとすると、以下のような矛盾が指摘できます。
- 朝鮮半島北部から女王国まで1万2000里と書かれ、途中の伊都国(福岡県糸島市)から女王国までは残り1500里しかないのに、邪馬台国には九州北部から船で30日、歩いて1ヶ月もかかる。
- 邪馬台国まで60日もかかるのに途中国の描写がない。日数は倭人からの伝聞で、実際には邪馬台国を訪れていないことを示す。一方、卑弥呼や王宮の描写は具体的で、詔書や金印を授けている。つまり、魏の使者は邪馬台国を訪れていないのに、卑弥呼には会っている。

このような矛盾は、女王国と邪馬台国が別の国だったと考えると解消します。1万2000里(伊都国から残り1500里)は女王国までの里数、水行陸行は邪馬台国までの日数です。魏の使者は邪馬台国は訪れていませんが、女王国で卑弥呼に会っています。
邪馬台国は大和にあった
日数では邪馬台国の所在地を特定しようがありません。鍵となるのは発音です。邪馬台国は古代中国語では「ヤマト国」と読みます。古代の日本列島では、「ヤマト」は九州の「山門」と近畿の「大和」が知られています。
万葉仮名の研究により、古代日本語の「ト」の発音には甲類・乙類の2種類があったことがわかっています。邪馬台と大和の「ト」は乙類、山門は甲類です。発音からは、邪馬台国は大和と考えていいと思います。
ただし、大和(纒向)は外交拠点の実態がなく、卑弥呼の都とは考えられません。3世紀の邪馬台国はまだ地方の新興国で、ヤマト王権に発展したのは4世紀以降だったのではないでしょうか。
女王国(卑弥呼の都)は奴国だった
外交拠点だったことを示す中国鏡や楽浪(朝鮮半島北部)系土器が集中しているのが、福岡県の糸島平野(伊都国)と博多平野(奴国)です。女王国は伊都国から離れたところにあり、候補地は奴国に絞られます。古代には儺県(なのあがた)とも呼ばれた地域で、比恵・那珂遺跡が中心となります。

倭国のNo.2で銀印などを贈られた難升米は「儺(な)・しめ」であり、奴国王かつ男弟だった可能性があります。比恵・那珂遺跡は1.5km以上の道路もつくられた都市であり、外交拠点、青銅器や鉄器の生産拠点として発展していました。
女王国=奴国は一見突拍子もない説に見えるかもしれません。ここでは3つの疑問に答える形で、魏志倭人伝と矛盾しないことを説明します。
疑問1:邪馬台国が「女王が都を置いているところ」であり、「女王国」は邪馬台国ではないか。
回答1:魏志倭人伝には女王国の国名は書いてない。女王国と邪馬台国は別の国であり、「女王国」と「女王が都を置いているところ」の記述は無関係である。古代の日本列島には女王が複数いた。
疑問2:伊都国から奴国は100里だが、伊都国から女王国は残り1500里である。
回答2:魏志倭人伝の里数は誇大であり、相対的にも不正確である。朝鮮半島北部からの1万2000里という数字が先にあり、国と国との里数が適当に割り振られたと考えられる。もともと整合性はないのだから、100里と1500里で違っても問題にはならない。
疑問3:卑弥呼の王墓は径100歩(140m)と書かれている。奴国に巨大な王墓はない。
回答3:王墓の記述も誇大である。卑弥呼の死去は狗奴国との戦乱中で、死後には政権内に混乱が生じた。そんな時に巨大な王墓はつくれない。王墓は比恵・那珂遺跡の方形周溝墓などが候補になる。
以上のとおり、女王国=奴国は、魏志倭人伝からも説明可能です。魏志倭人伝は女王国=邪馬台国と誤解して書かれ、読まれてきました。それが邪馬台国論争に結論が出ない原因なのだと思います。
邪馬台国とヤマト王権は連続していますが、卑弥呼とヤマト王権は連続しているわけではありません。
※ 僕は2020年のアゴラ記事では女王国=山門説でした。外交拠点の痕跡を重視すべきだと考えなおし、博多説に変更しました。
※ 女王国と邪馬台国が別の国であるという説は戦前からあります。九州説、大和説に加えて、この説にも注目を、というのが今回の記事の目的です。
■
浦野 文孝
千葉市在住、古代史に関心のある一般市民。
note:https://note.com/fumitaka_urano






