
日本人は空気に弱い、とよく言われる。とくに有識者を名乗る人ほど口にする。そこには「インテリの私は違うけどね、フフフ…」といった自己卓越化と見下しがあるのだけど、そうした人のほとんどはコロナ以来、率先して空気に追従し続けて、信用を失ってしまった。

そんな軽薄なことになるのも、空気を読ませる母体であるムラ社会のリアリティを、ぼくらが忘れているからだと思う。意識高い感をひけらかし「日本っていまもムラ社会じゃないですかぁ、ホモソーシャルとかぁ…」みたく言う人ほど、マジモンのムラ社会をなにも知らない。
なにも知らないから、自分だけは「克服できた」という気持ちでいても、実は全然そうなっておらず、同じものに躓いてしまうのである。
どうすれば、マジモンに触れられるか。天皇制論の文脈でよく参照される、渡辺清の『砕かれた神』は、その最良の素材でもある。敗戦により、故郷である静岡の農村に戻った海軍復員兵の手記で、1945年9月~46年4月の日記形式である。
そのまま史実として引く歴史書もあるが(たとえばダワー『敗北を抱きしめて』)、刊行は1977年なので、後世に回想しての潤色も含むと見たほうがよい。福間良明氏は「自伝的小説」と呼んでいるが、そうした資料として読むのが妥当だと思う。

たとえ脚色されていても、精神的な自伝である以上、そこには戦争を潜り抜けた世代が感じていた、圧倒的なムラ社会の「リアリティ」がある。ちょっと恐ろしいくらいだが、覗いてみよう。
敗戦で復員した渡辺は当初、半ばうつ状態で家で寝ており、家族から「ご近所に帰郷の挨拶をしろ」と言われても、やる気がない。なぜなら大量の戦死者を出した村で、生きて帰った人間が内心いかに妬まれているか、その自覚があるからだ。
この村では戦死者が非常に多い。おれの部落だけでも十一人もいる。戸数はわずか十九軒。そのうち九軒が戦死者の家で、その中には、西口のように二人も戦死している家だってあるのだ。
九軒といえば部落のほぼ半数だが、このように戸数のわりに戦死者の数が桁はずれに多いのは、郷土部隊の静岡連隊が、……激戦地から激戦地に回されたためで、その間には連隊長の田上大佐夫人があまりの戦死者の続出に日夜悶々の末、留守宅で毒をあおって自殺したという事件もあって、
岩波現代文庫版、14-5頁
(強調は引用者)
マジかよ。でも「あっても不思議じゃないよね。周りの視線が痛いもの」と思わせるのが、戦時下の日本のムラだった。
戦争中はそれでも、戦没者の家の農作業をみんなで手伝ったりしたのだが、敗戦とわかるや「犬死」「貧乏くじ」と陰口が語られ始める。遺族の憤懣はもっともだとしつつ、著者はこう思う。
しかし実際のみんなの気持ちそのものは、戦争中もいまもそれほど変わっていないのではないか。戦争中はただ時勢に口うらを合わせていたのが、戦後になってたまたまその本音が出てきた。それだけのちがいではないのか。
「隣りが田を売りゃ鴨の味」と言われているように、戦争中も百姓たちはひそかに戦死者の不幸を喜んでいたのではないか。おれにはそんな気がしてならない。
94頁(段落を改変)
いまも「他人の不幸は蜜の味」とは言うけど、鴨の味なあたりにずしんと来る実感がある。で、そうしたマジモンのムラ社会を忘れた人たちは、80年近く後のコロナ禍でも同じことをやっていた。
表では「ウイルスとの戦いに協力を!」と囃しながら、裏では「補償でカネ貰える職種はズルい」と陰口をきき、閉店に追い詰められても「貧乏くじだねご苦労さん」と冷笑して、在宅リモートで働ける「俺さまは意識高い勝ち組カッケー!」とSNSで自讃していた。まさに鴨の味である。

ムラ社会を支えるのは、近世からの家族構造に明治民法が乗っかって作った「イエ制度」だ。これまた、日本は令和のいまもイエ制度だから……と意識高く口にされる用語だが、ほとんどの人はそのリアリティを知らない。
イエ制度の下では、結婚するのは男女ではない。「ご両家」のあいだで式を挙げ、イエの跡継ぎを設けるのが目的なので、愛とか本人の気持ちとかはどうでもいい。なので、こんな事態が起きる。
嫂〔あによめ〕との結婚にあまり気のりしていない安造にあらたまって「おめでとう」とも言えず、おれは黙っていた。年は幸子のほうが三つ上だそうだが、こういうふうに弟と嫂と結ばれる例は最近は方々にあるらしい。
隣り村では、弟が十も年上の嫂と一緒になったという話も聞いた。これを村では ”逆縁” とか ”直る” といっているが、そのほとんどは跡取り息子が戦死した家のようである。
105頁
近世以来、日本の農村には跡継ぎ以外を結婚させる余裕はなく、とはいえ成人前に死ぬかもしれないので「ひとりっ子政策」も採れない。江戸時代にはまだ、誰が家を継ぐかに自由度があった節もあるが、明治以降に儒教思想の影響が広がると、長男以外は地元で結婚できなくなっていた。
……といった話は、2011年に出した『中国化する日本』にも、丁寧に書いている。このとき家族史や女性史をちゃんと勉強したから、近日の「女子トイレと女湯の話だけする」フェミニズム(?)には引っかからないわけだ。まさにジェンダー平等に基づく、日本史叙述の先駆けである。

そもそも著者の渡辺清が1941年、高等小学校を出てすぐ海軍に志願したのも、次男に生まれて地元では継ぐ家がなかったからだ。マリアナ、レイテ沖海戦に従軍して戦艦武蔵の轟沈を体験し、敗戦でようやく復員するも、自らマッカーサーに屈した昭和天皇の変節に衝撃を受ける。
このとき「陛下もお辛いなかで頑張っている」と自分を納得させたのは、1932年生の江藤淳だけど、25年生だった渡辺はそうはいかない。なにせ三島由紀夫と同い年である。信じてきた天皇の「裏切り」に怒髪天を突き、共産党よりも一本気で強硬な天皇制の批判者となる。

発売中の『文藝春秋』8月号の連載「保守とリベラルのための教科書」では、戦争責任論のオーソドクスな文脈で、本書を採り上げた。そちらのリンクを貼る前に、最後に紹介したい挿話がある。
軍艦の寄港地だった横須賀の一家に助けられて、渡辺は農学の教授を手伝う職の口を見つけ、村を出てゆく。復員した仲間どうし、ささやかな別れの席を持つが、そのとき渡辺はこう思う。
邦夫も晋太郎もおれのことを「日本左衛門」と言ってさかんにうらやましがっていた。日本左衛門というのは、このへんでは二、三男(おんじ)のことを言う。
日本中どこへでも行きたいところへ行って好き勝手なことができるという意味だが、二人とも家にしばられている長男だけに、おれのような身軽な次男坊がよけいうらやましく見えるらしい。
323頁
なにが戦前の日本を停滞させ、戦後という時代にそれを変える力は、どこから来たか。マジモンのムラ社会やイエ制度と本気で格闘した人びとの記録から、いまなお教わることはあまりに多い。

参考記事:



(ヘッダーは、オンラインミュージアム「戦争と静岡」より。1943年秋、ガダルカナル島から帰還した遺骨を抱いての葬列)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年7月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。






