きょうは長崎に原爆が投下されてから80年目である。参院選では参政党のさや候補が「核武装は安上がりだ」と主張して論議を呼んだが、殺傷する人数でみると核兵器が低コストであることは事実だ。
広島に投下された原爆の死者は約15万人、長崎は8万人と推定されているが、東京大空襲の死者は100回の合計で約12万人だった。

広島市ホームページ
「本土決戦の死者100万人」は本当か
ただ実際の戦争で使うとなると、爆発力以外の複雑な要因がからむ。広島・長崎の場合は「本土決戦による死傷者100万人を避けるためだった」というのがアメリカ政府の説明だが、これには疑問がある。
これはスティムソン陸軍長官の「ダウンフォール作戦(本土決戦)の死傷者は100万人」というアバウトな見積もりが根拠だが、統合参謀本部の計算では米軍の死傷者は4万人だった。
ただ沖縄戦では日米で軍民20万人の死者が出たので、米軍が1945年11月に九州に上陸して東京まで攻撃すると、その10倍以上の死者が(日米の軍民で)出ることは確実だ。これに比べると、広島・長崎の合計23万人という死者は少ない。
つまり日米の軍民の死者を最小化したという意味では、原爆投下は安上がりだったといえるが、問題は原爆投下がなかったら本土決戦になったかということである。果たして原爆投下がなかったら、日本政府はポツダム宣言を拒否しただろうか。
日本は原爆投下がなくてもポツダム宣言を受諾したか
この問いを考える上では、7月26日にポツダム宣言が出されてから、8月6日に広島に原爆が投下されるまでの11日間、日本政府がその受諾をためらったことが重要である。もし日本がただちに受諾していたら、原爆は投下されなかった。
ポツダム宣言は軍部の無条件降伏を求めたが、政府については有条件講和の申し出だ、と当時の外務省は判断した。しかしそこには政府の最大の関心事である「国体護持」が明記されていなかった。
スティムソンの起草した原案には、政府の形態として「現在の皇室のもとでの立憲君主制を含む」という言葉があったが、バーンズ国務長官がこの言葉を削除したため、宣言には「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有しかつ責任ある政府」の樹立という抽象的な条件が書かれただけだった。
それはなぜか。ポツダム宣言を受諾させるために原爆を投下したのではなく、その逆だったからだ。原爆投下はポツダム宣言の前日の7月25日に決まっており、それを正当化するためにポツダム宣言を出した、というのが長谷川毅の見方である。
したがってポツダム宣言は拒否される必要があった。日本政府がポツダム宣言を受諾すると、原爆の開発に費やした20億ドルの予算が無駄になるからだ。日本軍の特攻で多大の損害をこうむった米軍にとっても、この狂気の軍隊が通常の戦闘で降伏するはずがないので、原爆投下は自明の方針だった。
ソ連の参戦は決定的な条件だったか
それに対して、ポツダム宣言受諾の決定的な条件は原爆投下ではなくソ連の参戦だったという説もある。日本政府はスターリンに英米との和平仲介を求め、近衛文麿を特使としてモスクワに派遣するつもりだったが、ソ連に拒否された。それは当然だった。ヤルタ密約では、スターリンは参戦を約束していたのだから。
したがって8月9日のソ連参戦は、日本政府にとって青天の霹靂だった。これで名誉ある和平が不可能だとわかったので、10日の御前会議で「聖断」が下り、ポツダム宣言の受諾が決まった。
これは昭和天皇の個人的な判断ではなく、内外の状況を分析した外務省の結論だった。陸軍将校の一部は最後までこれに抵抗し、重臣を軟禁して天皇に直訴するクーデタを計画したが、阿南陸相はこれを承認せず、空振りに終わった。
それにしてもポツダム宣言を出す前に原爆は完成し、ソ連の参戦も決まっていたのだから、アメリカ政府が本当に戦争を終結させるつもりだったら、宣言に「受諾しない場合は大量破壊兵器を使用する」などと明記し、スターリンも署名すべきだった。
ところがポツダム宣言には「迅速かつ完全なる破壊あるのみとす」と抽象的に書かれているだけで、スターリンの署名はなかった。それが日本政府に「これは最後通牒ではない。ソ連が最後の頼みだ」という誤ったシグナルを送ってしまった。
日米戦争が終わり冷戦が始まった
トルーマンがスターリンを除外したのはなぜか。それは7月17日に核実験に成功し、ソ連の参戦がなくても日本は降伏すると考えたからだ。トルーマンは7月18日の日記にこう書いている。
ロシアが参戦する前に日本は参ってしまうものと思う。マンハッタン(原爆)が日本の本土上陸に登場すれば、日本は参ってしまうと確信する。
それまでソ連の協力なしに日本を降伏させることはできないと思っていたトルーマンは考えを改め、ソ連の参戦前に原爆を投下することを決意した。ポツダム宣言でソ連の参戦を明らかにしたら、和平の希望を断たれた日本政府はポツダム宣言をただちに受諾し、原爆を投下するチャンスがなくなってしまうからだ。
ポツダム宣言の即時受諾は、軍部が本土決戦(決号作戦)を準備し、国民のほとんどが本土決戦を覚悟していた当時は不可能だった。天皇と外務省の意見は一致していたが、軍部を説得することが最大の難関だった。
原爆投下とソ連参戦のどっちが決定的だったかについては専門家の意見もわかれているが、原爆投下なしでは「聖断」は不可能だったと思う。それはソ連参戦という外交上の変化だけでは本土決戦を呼号する軍部を説得できないからだ。

米統合参謀本部の日本分割統治案(Wikipedia)
日本にとっても8月上旬はぎりぎりのタイミングだった。あと半年、降伏が遅れていたら米軍やソ連軍が本土に上陸し、日本は朝鮮半島のように分割されたかもしれない。日本列島を英米中ソで4分割する案も、統合参謀本部で検討されていた。
原爆投下は日米戦争の終わりであるとともに冷戦の始まりだった。もちろん原爆は国際法違反の無差別爆撃だが、日米の犠牲者を最小化し、日本の分割を防ぐ上では意味があったともいえよう。







