平和都市・広島の設計者・浜井信三の著書『原爆市長』

8月6日の前後のSNSでは、広島にまつわる話題が多々出てきていたようだ。昭和世代にとって「広島」は、冷戦構造の中で語られていた「ヒロシマ」だろう。原爆資料館の来館者の3分の1以上が外国人となっている現在の「Hiroshima」は、それとは少し異なる性格を持ち始めている。これについては、昨日の記事でふれた。

広島に対する国際的な関心:そして潜在力のある復興史研究の蓄積
8月6日は、広島の原爆忌であった。広島市の平和記念式典で、高市総理大臣が就任後初めての挨拶をした。国際情勢も緊張しているが、日本も、防衛費の2倍増を経て、さらに安全保障三文書改訂などの軍事増強路線に入っている微妙な時期での開催となった。小泉...

SNSを見ると、たとえば「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という広島平和記念公園内の慰霊碑の碑文をめぐる論争が蒸し返されたりしている。

これは昭和から続く論争点だが、意外にも21世紀になってから暴力的に扱われるようにもなった。
慰霊碑は、刻まれている碑文を狙う形で、何度か襲われてきている。広島市のウェブサイトで紹介されているだけで、2002年3月にペンキがかけられて文字が読めないようにされた事件や、2005年8月に碑文が傷つけられる破損事件が起こったことが紹介されている。

平和記念施設保存・整備方針 第2 策定の背景|広島市公式ウェブサイト
広島市公式ウェブサイト

当時、私は広島大学の広島市内のキャンパスに勤務しており、広島市内に居住していた。そのため町の雰囲気は、よく覚えている。

2001年9・11テロを契機にした対テロ戦争の時代に、広島の国際的意味は高まった。外国人来館者も増加の一途をたどり始めた時期である。現代の武力紛争と、それらに対応する平和構築の政策の研究者であった私も、日本政府(外務省・JICA)や国連機関の招へいで広島を訪れるアフガニスタン人、イラク人、その他の紛争後国からの来訪者への対応を年に何度もやらせてもらっていた。ただ逆に言えば、対テロ戦争が作り出した悲劇と矛盾が、蓄積し始めていた時代であったとも言える。

綺麗ごとを並べながら復興を語るアメリカ人は、他人に説教ができる立場なのか?世界各地で殺戮を繰り返しているのは、アメリカなのではないか?今日でも投げかけられ続けている問いが、切実な形で提示され始めた時代だった。

日本の負の歴史と、アメリカの負の遺産が、進行中の戦争のイメージと重なり合って、広島にも重たくのしかかってきていた。

広島に来る外国人は、必ず問う。「なぜ広島の人はアメリカに復讐をしないのか?」
私は答える。「被爆者の方々の多くは、長い間、復讐のことしか考えられなかった、とおっしゃる。被団協の代表が、最初の30年くらいは平和記念式典など関心がなくて出席しようと思ったこともなかった、と言っている。それでも30年かけて、なぜ、どうやって変わったのか、関心がわかないか?」

広島に来る外国人は、必ず問う。「広島の人はもうアメリカを憎んでいないのか?」

私は答える。「平和運動をやっている人でも、まだアメリカを憎んでいる人はいるだろう。一般のアメリカ人は憎んでいないが、トルーマンだけは死ぬまで許さない、といった線引きをする被爆者もいる。人それぞれだ。いずれにせよ、何とかして自分の感情と折り合いをつけるための線を引こうとする。どうやって線を引くのか、関心がわかないか?」

これらの会話がどのような展開を見せていくかは、一般論では決められない。被爆者の数だけ、あるいはそれ以上に、無数の異なる人間の生き方というものがあるからだ。そして、それは世界のどこでも、同じである。広島では、そうした各人の苦難が、画期的な程度にまで記録され、あるいは平和運動の中で昇華されていることが、特別だ。

慰霊碑の碑文には、無数の人間の異なる生き方と考え方が、凝縮されている。たったの一文で、全ての被爆者、あるいは全ての広島市民の気持ちを言い尽くすことは不可能だ。論争点も内包している。だがそれにもかかわらず、広島の中心部に造られた平和記念公園の中央部に設置された慰霊碑の碑文は、画期的なまでに広範な支持も得ている。世界のどの紛争後地域の事例と比しても、驚くべきほど高い水準で支持されていると言える。

原爆死没者慰霊碑 広島市HPより

碑文を考案したのは英文学が専門で、被爆者でもあった雑賀忠義・広島大学教授であったことはよく知られている。ただ1952年、雑賀に碑文の考案を依頼して委嘱したのは、当時の広島市長の浜井信三である。浜井が雑賀に、祈りと誓いを込めた碑文にしてほしいという基本的な考えを伝えているので、碑文の精神の生みの親は、浜井市長であった、と言うべきだろう。

そもそも広島平和記念公園全体を包み込む「広島平和記念都市建設法」に詰まった「軍都だった広島を、あえて平和都市という新しいアイデンティティを基盤にして、復興する」という理念は、広島市の初代公選市長の浜井が取り入れたものだ。浜井のプロジェクトでは、町の中央部に資料館や慰霊碑を内包して造られる平和記念公園の中央部には、広島の新しいアイデンティティを簡潔に表現する一文が、絶対に必要だった。

浜井の著書『原爆市長』(原著は1967年、復刻版は2011年にシフトプロジェクトが公刊)には、様々な興味深いエピソードや浜井の考えが収録されているが、「碑文に賛否沸く」の節もその一つである。浜井は「反対も激しかったが、賛成の声も強かった」と述懐している。そして次のように述べている。

書影撮影:筆者

「この文章には、文法上の主格がない。それで、過ちは誰の過ちであるか、というのである。反対者や抗議派のいい分は、われわれは何も過ちを犯していないのに、われわれが過ちを繰返さないなどという、そんなバカげたことがあるか、というのである。

碑文というものには、いろいろな書き方があろう。私はこの碑には、この前に立つすべてのものに共通の祈りと誓いを刻みたいと思ったのである。

エメリー・リーブスがいみじくもいったように、『その人びとの殉難は、生き残るわれわれが、将来の戦争の悲劇を、いかにして防止するかを学び得たときに、意味を持つことができる』のであって、この碑が現実に平和への努力につながらなければ、それはただ追想の石でしかなく、単に犠牲者を悲しむ一片の墓碑銘でしかなくなる。・・・

人類の福祉のために使われてこそ、意義を持つ科学の成果を、殺戮や破壊に用いたことは、明らかに人間の大きな過ちであった。この碑の前にぬかずくすべての人々が、その人類の一員として、過失の責任の一端をにない、犠牲者に詫びることの中に、私は、反省と謙虚と寛容と固い決意とを見いだすのであって、その考え方こそが、世界平和のためにぜひ必要だと考えた。

この碑の前に立つ人は日本人だけではない。それがどこの国の人であろうと、同じ考えでなくてはならないと思ったのである。

世界の平和は、一個人、一国家、一民族だけの力では達成できない。そういう一つ一つの努力が鎖のように結ばれて行って、はじめて達成できる。そのためには、恨みや憎しみを捨てて、寛容な気持ちで手を差しのべてゆくのが、平和を望むものの基本的態度でなくてはならない。仇討ちの思想は、決して平和へ通じる道ではない。

しかし、それは罪悪に目を掩(おお)うことであってはならない。原子爆弾のような、残虐で無軌道な兵器で、何の罪もない老若婦女子までみな殺しにするなどということは、何としても許されていいものではない。これ以上の罪悪はこの世にない。それを誰がやったにしても、どのように理屈をつけてみても、黒は黒である。戦時中に日本兵がやったといわれる南京やマニラの虐殺も同じである。」(209~210頁)

浜井は、この文章の後、極東軍事裁判の判事で、裁判所のあり方自体に批判的な意見を示したことで有名なインドのパル博士が広島を訪れた時のエピソードも紹介している。当初、碑文に批判的であったパル博士は、浜井に、碑文の意味を尋ねた。浜井が上述の趣旨を説明したところ、パル博士は、「それならば、私も賛成だ」と述べたという。そのうえで、浜井は、インド人の根深いイギリス統治に対する敵愾心も感じた、と書いている。

浜井の胸像:筆者撮影

私の印象では、浜井は、第一級の知識人の政治家である。私の狭い知識の範囲内のことである、と前置きはしておくが、私の日本史の理解において、浜井ほどの偉大な政治家は、他に存在しない、というレベルである。それくらいに、浜井は偉大で、優れた人物だったと思う。

広島に生まれ、高校まで広島で暮らした浜井は、しかし東京帝国大学法学部に進み、中央官庁の官僚になることを志していた。しかし中央省庁での就職が不調であったため、それならば、と郷土の広島市の役人になることにした、という珍しい経歴を持つ。原爆投下時、40歳で広島市配給課長だった。投下直後の1945年9月に物資課長、12月には助役に就任した。市長や助役を含めた人々が、原爆で死亡してしまったためである。

市長や助役がいなくなった市役所で、浜井は幹部扱いの東大法学部出身者だった。新憲法が公布され、地方自治体でも選挙が行われることになると、周囲の者たちは、浜井に市長選に立候補するように勧めた。あるいは依頼した。他に適任者がいなかったからだ。

1947年に42歳で広島市長に就任して以来、4期16年にわたって広島市長を務めた。ただし2期目の後、一度は選挙で敗れている。浜井の復興政策は、むしろ不人気だった。しかし後任にとっても広島の復興が一筋縄の作業ではないことが明らかになり、4年後に返り咲き、1967年まで市長を務めた。

言うまでもなく、浜井市政の時代に、広島は「平和記念都市」というアイデンティティを得て、その基盤を作り、政策を軌道に乗せていった。浜井こそが、ミスター平和都市・広島である。

浜井の胸像が、平和記念資料館の入口ロビーの脇にひっそりと置かれている。視線を向ける者はいない。広島に在住の者でも、そこに胸像があり、それが浜井であることを知る者は、少ない。2019年のリニューアル前の時期は、入り口正面にあったが、あまりに誰にも知られていないため、リニューアルにあたって撤去されそうになった。私もそうだったが、少数の者たちが反対し、撤去は見送られたが、ロビーの脇に押しやられてしまった。

しかしそれでも浜井の偉大さは変わらない。ささやかながら、私は、訪問者と資料館を訪れる際には、まず必ず浜井の胸像の紹介から始める。

もし浜井が完全に忘れ去られ、その胸像も撤去されてしまうようなことがあれば、それは広島だけでなく、日本にとって、甚大な不幸の時代の始まりになるだろう。
私は、近いうちにその日が来るのではないか、とは恐れている。もちろん、願わくは、来ないでほしい、とも思っている。

国際情勢分析を『The Letter』を通じてニュースレター形式で配信しています。

篠田英朗国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月2回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。

【参照記事】

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント