ドイツのメルツ首相は8日、イスラエルへの武器輸出を一時停止すると発表した。イスラエル政府がパレスチナ自治区ガザの中心都市ガザ市の軍事制圧を決定したことへの対応だ。メルツ氏は「イスラエル軍のさらなる軍事攻勢がいかなる成果をもたらすか不明だ。またガザ市民をさらに苦境に陥れる危険性が出てくる」として、イスラエル軍がガザ区で使用する武器の輸出を凍結すると述べた。ドイツは米国に次いでイスラエルに武器を輸出してきた。年間武器輸入で約3割を占めるドイツからの武器が止まることはイスラエルには大きな痛手だ。ネタニヤフ首相は「ドイツの決定には失望した」と表明している。

第1回投票で選出されなかったメルツ氏、2025年05月06日、連邦議会公式サイトから
パレスチナ自治区を実質的支配してきたイスラム過激テロ組織「ハマス」がイスラエル領に侵入し、約1200人のユダヤ人、250人余りを人質にした奇襲テロを受け、イスラエルはハマスへの報復攻撃を開始。同時期、レバノンのイスラム原理主義組織ヒズボラとの戦闘、核開発計画を続けるイランとの戦闘、また、イエメンの反政府勢力フーシ派との戦いなど、アラブ周辺国との戦闘が続いているだけに、イスラエルにとって武器の確保は死活問題だ。
メルツ首相の決定について、ベルリン在住ユダヤ人のベン・サロモ氏はドイツ民間放送ニュース専門局NTVに寄稿し、「イスラエルは7つの戦線で生き残りをかけて戦っている。ハマス、ヒズボラ、フーシ派、シリア民兵、イラクにおけるイランとの代理勢力、ヨルダン川西岸、そしてイランのテロ政権との直接的な戦いだ。メルツ首相の決定は、ドイツにとって単なる地政学的なパートナー以上の存在である同盟国への痛烈な一撃だ。これはドイツの価値観、歴史的責任、そして世界の安全保障に対する裏切りだ」と非難している。
同氏によれば、「七つの戦線への攻撃は地域紛争ではなく、中東および西側諸国全体における唯一の民主主義国家への組織的な攻撃だ。その背後には、ハマス、パレスチナ・イスラム聖戦、ヒズボラといったテロ組織を数十億ドル規模の資金、武器、兵站で維持しているテヘランとドーハがある。イランとカタールの政権を止められる者はいない。カタールは、2025年第1四半期だけでドイツから1億6000万ユーロを超える軍事装備を受け取っている。テロ代理勢力へ資金と武器の供給をする一方で、イスラエルは武器供給を絶たれ孤立させられている」というのだ。
このコラム欄でも報告したが、ドイツではイスラエルに対して無条件で支援するという国家理念(Staatsrason)があって、それがドイツの国是となってきた。その背景には、ナチスドイツ軍が第2次世界大戦中、600万人以上のユダヤ人を大量殺害した戦争犯罪に対して、その償いの意味もあって戦後、経済的、軍事的、外交的に一貫としてイスラエルを支援、援助してきた経緯がある。メルケル元首相は2008年、イスラエル議会(クネセット)で演説し、「イスラエルの存在と安全はドイツの国是(Staatsrason)だ。ホロコーストの教訓はイスラエルの安全を保障することを意味する」と語っている。メルケル氏の‘国是‘発言がその後、ドイツの政治家の間で定着していった。
そのドイツの首相メルツ氏が国の存続をかけて戦っているイスラエルに今回、一時的に武器を輸出しないと表明したのだ。メルツ氏の発言は他の欧州諸国では歓迎されているが、メルツ氏が党首を務める与党「キリスト教民主同盟」(CDU)のイスラエル支持派からは不満の声が出ている。
メルツ首相はARDとのインタビューの中で、「我々は疑いなくイスラエル側に立っている。ドイツのイスラエル政策の原則は変わらない。この点に関しては何も変わらないし、今後も変わることはない」と説明、「「我々には意見の相違があり、それはイスラエルのガザ地区における軍事行動に関するものだ。しかし、友情はそれを乗り越えられる。イスラエルとの連帯は、ドイツ政府がイスラエル政府のあらゆる決定を承認することを意味するわけではない。ドイツは現在、軍事手段のみで解決されている紛争に武器を供給することはできないが、我々は外交的に支援したいと考えており、実際にそうしている」と強調した。
問題は、メルツ氏がほぼ単独で今回の決定を下したことだろう。CDUの姉妹政党「キリスト教社会同盟」(CSU)の連邦議会議員のシュテファン・マイヤー氏は、RTL/ntvのインタビューで「この決定は、メルツ首相がCSUおよびCSU指導部との綿密な協議、調整を経て下したものではないことだ。この決定は利益よりも害をもたらす」と主張している。
以下は当方の推測だが、メルツ氏は連立政権パートナー、社会民主党(SPD)の立場を配慮し、連立政権の維持のためにイスラエル問題では妥協したのではないか。フランスや英国はパレスチナの国家承認の意向を表明し、イスラエルへの武器輸出の禁止を叫び出している中、ドイツは国是としてイスラエルの安全に対して義務を有する一方、パレスチナの国家承認問題では「まだ時期尚早」という立場をキープしてきた。それに対し、アラブ諸国や国連ばかりか、欧州諸国でもドイツへの批判が強まってきていた。それだけではない。SPDの中からもメルツ首相のイスラエル寄りへの批判の声が高まってきているのだ。
また、連邦議会では憲法裁判所の裁判官選出でSPDが指名したブロジウス=ゲルスドルフ氏に対するCDU会派内の抵抗が強すぎたため、新裁判官選挙が中止されたが、8月に入り、ブロジウス=ゲルスドルフ氏が候補を撤回したのだ。その理由はCDU内の強い反対があったからだといわれる。
すなわち、SPD内の左派グループにCDU主導の連立政権への不満が高まったとしても不思議ではないのだ。イスラエル政策でもSPD内では武器輸出停止、パレスチナの国家承認を支持する声が強い。メルツ首相がSPDの主張を無視してイスラエル側の立場だけを重視していけばCDU/CSUとSPDの連立政権が崩壊する危険性が高まってくるわけだ。そこでメルツ首相はCDU内のイスラエル寄りの議員からの反対を覚悟して、今回、イスラエルへの武器輸出の一時停止を表明したのではないか。
メルツ政権は連邦議会で過半数を12議席だけ上回っている。議会でSPD議員が与党提出の議案を拒否する可能性が現実味を帯びてくる。メルツ氏は5月の連邦議会での首相選出で第1回目の投票に落選し、2回目でようやく念願の首相に就任するという異例のスタートを切っている。1回目の落選の主因は政権パートナーSPDの18議員が連立協定(144頁)の合意にもかかわらず、メルツ首相に票を投じなかったからだ。
そこでイスラエルへの武器輸出の一時停止というカードを切って、SPDのCDUへの不満のガス抜きを図ったのではないか、というシナリオだ。メルツ氏を擁護する気はないが、国際問題での決定の背後に、国内の政権内の台所事情が大きかった、ということは決して珍しくはないのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2025年8月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。






