邪馬台国に卑弥呼はいなかった?「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」Q&A解説 --- 浦野 文孝

2025年7月16日のアゴラで「「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」への招待」という記事を投稿しました。

「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」への招待 --- 浦野 文孝
僕は、邪馬台国論争は現段階では結論は出ないと考えています。魏志倭人伝でも考古学でも決定的証拠はないからです。 1つの可能性として「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」を提示します。邪馬台国は大和にあったけれども、倭国の王都は奴国(博多...

今回はQ&A形式で「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」とはどういう説なのか、紹介したいと思います。

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Q1. 「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」って何ですか?

邪馬台国論争は九州説と大和説が有名ですが、九州説でも大和説でもない新しい説です。邪馬台国は大和にあったけれども、卑弥呼は博多(奴国)にいたと考えます。

Q2. 卑弥呼は邪馬台国にはいなかったということですか?

そのとおりです。魏志倭人伝には卑弥呼の都は女王国と書いてあって、邪馬台国とは書いてありません。女王国は邪馬台国だと誤解されてきましたが、女王国と邪馬台国は別の国です。

Q3. 邪馬台国は女王が都を置いたところではないんですか?

卑弥呼とは別の女王です。日本列島には複数の女王がいました。

Q4. どうして女王国と邪馬台国は別の国だと言えるんですか?

女王国が邪馬台国だとすると矛盾が生じます。1つは、女王国は帯方郡から1万2000里、伊都国から残り1500里しかないのに、邪馬台国には九州北部から水行陸行60日もかかること。もう1つは、魏の使者は邪馬台国は訪れていないと考えられるのに、卑弥呼には会って詔書や印綬を授けていることです。魏志倭人伝の矛盾は、女王国と邪馬台国が別の国だったと考えると解消します。

Q5. 魏志倭人伝を読むと、女王国は邪馬台国だと読めます

そうですね。陳寿は女王国は邪馬台国だと誤解して魏志倭人伝を書きましたから無理もありません。その誤解が、邪馬台国論争がいつまでも結論が出ない原因です。

Q6. 陳寿はどうして誤解したんですか?

女王国の具体的な国名が報告されていませんでした。陳寿は里数と方角から、女王国は会稽東冶の東、現在の台湾付近の海上だと推定しました。女王国も邪馬台国も女王がいる国だったこと、どちらも船で行く国(女王国は会稽東冶の東、邪馬台国は水行陸行)だったことから、両者を混同してしまったのだと思います。

Q7. 卑弥呼の都である女王国が重要だということですね?

はい、魏志倭人伝には邪馬台国は1ヶ所しか出てこなくて影が薄いです。女王国は5ヶ所に出てきます。3世紀には、九州の女王国と大和の邪馬台国が並存していました。邪馬台国はまだ地方の新興国で、重要な国ではありませんでした。

Q8. 女王国は九州にあったんですか?

伊都国から遠くないところですから、九州北部にあったことは明らかです。倭国は卑弥呼を共立した、九州北部の緩やかな連合体でした。卑弥呼は倭国の女王です。

Q9. 女王国が博多(奴国)だったというのは意外です

卑弥呼は中国との外交に積極的でした。大陸との交流・交易を表す中国鏡や朝鮮半島北部の楽浪系土器の出土は、奴国、伊都国に集中しています。女王国は伊都国から離れたところにあったと考えられ、候補は奴国に絞られます。倭国のNo.2である難升米は儺[ナ]・シメであり、奴国王かつ卑弥呼の男弟だった可能性があります。ちなみに、近畿からは楽浪系土器は出土せず、外交拠点だった痕跡はうかがえません。纒向が卑弥呼の都だったということは考えにくいです。

Q10. 九州北部は3世紀には衰退したのではないですか?

奴国の王都だった比恵・那珂遺跡は全長1.5km以上の道路がつくられ、王の居館や工房が立ち並ぶ都市でした。青銅器・鉄器の生産拠点としても発展していました。

Q11. 卑弥呼は巨大な墓がつくられたようですが。

魏志倭人伝の記述は誇大です。狗奴国との戦争中に巨大な墓はつくれません。魏志倭人伝は倭国を「遠い南の大国」に脚色しました。卑弥呼の遣使は、遼東半島の公孫氏を滅亡させた司馬懿の功績だからです。西晋の創業者である司馬懿を讃えるため、倭国を美化したのです。卑弥呼の墓は比恵・那珂遺跡の方形周溝墓などが候補になります。

Q12. 狗奴国も九州だったということですか?

九州南部の免田式土器の分布域は北部とは文化を異にしています。熊本平野が狗奴国の中枢だったと思います。

Q13. 狗奴国との戦争の結果は?

3世紀後半に奴国が停滞した形跡はありません。台与が女王となった倭国が勝利したか、和解が成立したのではないでしょうか。

Q14. 女王国は奴国で決まりですか?

いえいえ、邪馬台国論争は現段階では結論は出ません。文献学でも考古学でも決定的証拠はありません。「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」も1つの可能性を提示したものです。女王国と邪馬台国が別の国だとする説は戦前からありますが、女王国は博多(奴国)だとする説は初めてです。

Q15. 邪馬台国と奴国はどうなったんですか?

300年前後に箸墓古墳がつくられました。邪馬台国は4世紀にヤマト王権に発展し、大陸との交流・交易も沖ノ島経由の独自ルートが開発されました。それに伴い、奴国は優位性を失っていったのだと思います。

Q16. 邪馬台国とヤマト王権は連続しているということですね?

そうですね。しかし、卑弥呼とヤマト王権は連続していません。だから日本書紀には卑弥呼の記憶が残っていないのです。

※ それぞれの根拠を含め、詳細は以下のnoteを参照してください。

女王国(卑弥呼の都)と邪馬台国は別の国:卑弥呼九州/邪馬台国大和説【1/4】|浦野文孝
はじめに:邪馬台国論争は結論は出ない 2021年1月1日に放送されたNHK「邪馬台国サミット2021」で、出演者の片岡宏二さん(福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター)がおもしろいコメントをしていました。 ▶今の段階で「邪馬台国はここだ」と断定する説は怪しい 片岡宏二(NHK邪馬台国サミット2021) ※録画してな...
女王国(卑弥呼の都)は奴国だった:卑弥呼九州/邪馬台国大和説【4完】|浦野文孝
僕の「卑弥呼九州/邪馬台国大和説」は、全4回シリーズで400字×175枚超になりました。 今回【4完】が締めくくりの記事になります。4回の中で一番長いです(400字×65枚超)。僕の説の根拠と弱点に対する反論を説明しますが、結論は「まとめ」がわかりやすいと思います。 ※トップ画像 「漢委奴国王」金印のモニュメント(...

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浦野 文孝
千葉市在住、古代史に関心のある一般市民。
note:https://note.com/fumitaka_urano