
むむむ、と唸るnoteを読んでしまった。出てくる学者の固有名詞には知ってる人もいるので、そうした個別の評価は留保するとして、なかなかグサッと来ることを言ってると思うのだ。
著者のヤマダヒフミ氏は、なんか最近、人文書に見える “学者と社会の関係” がおかしくなってないか? と問う。特に疑問なのは、こんなノリの本が増えたことだという。

肩書だけが立派で中身のない学者が、学問という高みに自分の足で登る気がない、地べたに寝そべり、(努力すんのめんどくせー、全部三行で言えや)という怠惰な人々に、自分から降りていってあげるのである。
(中 略)
よくわからない難しい本を読みたくはないが、なんとなく知的なものを聞きかじって箔をつけたい、ぐらいの人達に対して、立派な肩書の人達が(昔のように必死に本を読んで熱く議論する、そういう時代はもう終わったんだよ、ゆるふわで楽しい私達が最高なんだよ)という福音を与えてくれる。
(中 略)
紫式部は腐女子だし、カフカはメンヘラで、ニーチェは私達を肯定してくれる応援団。過去の哲学者ってよく読めばみんな私達に生きる力を与えてくれる素敵な人達で、別に原書を読む必要なんかない。私達が三行で教えてあげるから、それを読めばいいんだよ。
ヤマダヒフミ氏note、2025.9.16
(段落を改変し、強調を付与)
あるある(苦笑)。「ニーチェは私達を肯定してくれる応援団」の例は、2010年に大ヒットした『超訳 ニーチェの言葉』とかを意識したものだろう。厳密には、同書の編者は権威とは関係ないが、ぼくも18年の本で批判したことがある。

エンタメの分野には「なろう系」という用語があるけど、ぼくは昔からそうした風潮を「なのに系」と呼んでいた。学者 “なのに” 難しげじゃない、みたいな評価を当て込んだり、そう見られることに固執したりする態度を揶揄しての命名だ。
もちろん学者がムダに「権威張らない」ことは、とても大事だ。前も書いたけど、社会に批判的なインテリほど “庶民を気どる” 流儀を失った時代に、リベラルの言論はエリートぶるばかりで空転し、見向きもされなくなった。
が、なのに系にも良性と悪性があって、カフカってメンヘラだよ、と書いた後にどうふるまうかが、両者を分ける。メンヘラって俗語で身近に思ってもらい、「だから原典行ってみようよ」となるのが、良いパターン。
だが悪いほうは、難しげな往年の作家を「しょせんメンヘラ!」と呼んだ時点で、話を終えてしまう。もうわかったから、そんなん読まんでもいいっしょ、はぁここまでバッサリ斬れる私カッケー! みたいなやつね(失笑)。
この種の人は頭も悪いから、”バッサリ斬って” ウケようとする自分こそ、斬る相手の権威に依存していることに、気づかない。名高い剣豪を倒すから自慢できるわけで、無名の通行人を斬るのを誇ったらサイコパスだ。
ガチでヤバいのが、これが喩えでなくリアルなことで、そんな学者って実際、SNSでも “通行人” にばかり斬りかかりますよね(笑)。他の学問にもいるけど、流れで「文学」の人を挙げておこう。

2025.9.24
なお、斬り合いの結末はこちら
要は、なのに系(悪性)がやってるのは衆愚の先食いで、”あの” 文豪を軽くあしらえる私スゴいでしょ! してる内に、「そいつ誰すかぁ? 読んでたらなんなんすかぁ?」と言われるようになる。
タレントYouTuberの方が、教養書の紹介でも大学の先生より遥かにウケる時代に、学者 “なのに” とか気どられても意味がないのだが、令和に入って事態はもっと悪化した。ご存じのとおり、コロナで大学教員のほぼ全員が対応をまちがえて、権威がゼロになったからだ。

そんな情況には、先例というか、原点がある。
「大学教授がそんなに偉いのか?」と疑う反知性主義が高まっていたところに、社会が熱病的なパニックに陥り、時勢に屈して場当たり的に “国の方針に追従” する大学の醜態が晒されて、ますます信用を失う――そう、70年安保や全共闘と同じだ。
…という話の決定版を、発売中の『表現者クライテリオン』11月号の、荒木優太さんとの対談で披露している。すでにご紹介した前編の続きで、実は話し忘れても後で加筆した “とっておき” だ。

與那覇 2019年刊の『在野研究ビギナーズ』(明石書店)で荒木さんは、イヴァン・イリイチに師事して日本でも民間主導の研究所を運営した、山本哲士さんを取材されましたよね。彼は加藤典洋と同じ1948年生まれですが、語られた全共闘期の体験がとても印象深くて。
当時、研究棟を1つ乗っ取るのに、戦力は学生が3人でも十分だった。なぜならヤバそうなトラブルを起こすだけで、教員も職員もみんな、責任を負わされたくないから逃げるんだと(苦笑)。後は、授業は休みになったんで麻雀大会やりますとか言っておけば、遊び半分の野次馬も集まってきて、大学を占拠できちゃうと。
これが20年以降、コロナ禍での「自粛」やキャンセルカルチャーになんら抵抗できず、右往左往するだけだった令和の大学にも重なって映りました。しかも往年の紛争では、教員が恥をかいてもキャンパスの内輪で済んだけど、いまはSNSで全部見えちゃう。
いま反知性主義と呼ばれているのは「オンラインでの全共闘」で、それが70年安保から半世紀を経たここ数年間で進行し、いよいよ在官の権威が解体されつつあるともいえます。
161頁(算用数字に改変)
コロナでの失敗以降、まちがえても謝れない学者を嬲る場所はSNSやこうしたnoteだから、キャンパスでの吊るし上げと違ってブロックできる。しかし、そんな見えない全共闘の方が、「気づいたら手遅れ」のリスクは高い。

いやいや、自覚がないわけないっしょ、頭いい人たちのはずだし? と思うかもしれない。が、ないんですよ、実際に(笑)。
以下はたまたま目についた例だけど、自ら「大学の先生をしています。最近は一般向けに語ることが多いんですけど。」と、大学教員 “なのに” 一般向けです、な自己紹介をする著者氏は、

令和人文主義となぜ言い始めたかというと、2016年以降くらいに活動し始め、令和開始くらいに活躍し始めた人たちに一定の共通点があって、
(中 略)
・文体が上の世代と全然違う
・受け手は学生よりも会社員(新しい知の観客を意識した語り方)
・多メディア展開
・反アカデミズムではない
谷川嘉浩氏note、2025.10.11
と、なのに系なことを述べている。反アカデミズムではない、つまりガクモンは権威あるモノ “なのに”、大学に通わない会社員にも読める文章で書いてあげるよ、新しくない? というわけだ。
わりと名前を見る人だから、キャンパス外の実社会との接点は多い方の学者さんだろう。それでもこのレベルな現状のおかげで、いまや学会の頂点に立つ教授を看板に「ガクモンの自由!」を叫んでも、マスコミにスルーされてしまう(涙笑)。

かくして、大学の先生は権威がある、”なのに” 下々のレベルにあわせて人文知を広めてくださる、みたいに思い上がった前提は、終わった。でも、じゃあ今後はどうすれば、知性が働く場所を社会に作っていけるだろうか。
ずばりそれを議論する『表現者クライテリオン』での対談は、荒木さんのYouTubeでも、前後編の全編を有料公開している(サブスク登録すると、以下から見れるそうだ)。ぜひ、多くの読者や視聴者を得ますように。
参考記事:



(ヘッダーは1969年、バリケードで京大のキャンパスを封鎖する学生たち。毎日新聞より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年10月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。






