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働き方改革や最低賃金引き上げを巡り、「町工場が潰れる」「日本のものづくりが壊れる」という声が後を絶たない。だが、率直に言えば、その多くは経営の失敗を制度のせいにしているに過ぎない。
そもそも、いわゆる「町工場の経営者」と呼ばれる人々の多くは、厳密な意味での経営者ではない。彼らの本業は技術者、あるいは職人であり、経営は兼業、もしくは肩書きにすぎない。技術力と経営能力を同一視する日本特有の甘さが、この問題の出発点である。
良いものを作れることと、利益を生み続ける事業構造を設計できることは、まったく別の能力だ。価格決定力を持たない下請体質、特定顧客への過度な依存、残業と休日出勤を前提にした生産計画 ― これらは外部環境ではなく、経営判断の結果である。それを「大手が悪い」「政策が悪い」と言い換えるのは、責任転嫁に過ぎない。
「我々は努力してきた」という言葉も頻繁に聞かれる。しかし市場は努力を評価しない。評価するのは付加価値であり、生産性であり、代替不能性である。何十年も同じ取引構造に安住し、価格交渉力も持たず、事業モデルの転換も行わなかった企業が、制度変更をきっかけに立ち行かなくなるのは、偶然ではない。必然である。
最低賃金引き上げや働き方改革は、企業を苦しめるための制度ではない。生産性の低い企業を炙り出すための「踏み絵」である。時間を切り売りしなければ成り立たない事業、長時間労働を前提とした利益構造は、もはや先進国の経済では持続不可能だ。それに耐えられない企業が退出することを「悲劇」と呼ぶのは、経済の新陳代謝を否定する態度である。
しばしば「町工場が潰れれば日本の技術が失われる」と語られる。しかし、失われるのは技術ではなく、経営能力を欠いた器である。技術や人材は、より生産性の高い企業や新たな事業体へ移るべきだ。非効率な器を温存することが、技術継承だという発想自体が誤っている。
日本経済の停滞は、企業が潰れなかったことの帰結である。退出すべき企業が退出せず、賃金も生産性も上がらない状態を長年放置してきた。そのツケが、今になって表面化しているに過ぎない。にもかかわらず、今なお「守れ」「配慮しろ」という声が支配的であること自体が、日本の構造問題を象徴している。
経営とは情緒ではない。結果責任である。経営の質を高める努力を怠ってきた企業が市場から退出することは、冷酷でも非情でもない。むしろ、日本が正常な経済に戻るために必要な過程である。
「町工場を守れ」という幻想を捨てられるかどうか。そこに、日本が次の段階へ進めるかどうかがかかっている。






