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枇杷かな子『今日もまだお母さんに会いたい』(KADOKAWA)を読んだ。
「今日もまだお母さんに会いたい」(枇杷かな子 著)KADOKAWA
両親が同時期にがんと診断され、約2年の介護の末に見送るまでの日々。余命宣告、最後の家族旅行、弱っていく親を見つめる日々。構成としては、介護エッセイの王道をなぞっている。どこかで読んだことのある展開だと言われれば、そうかもしれない。
だが、この作品には「ありふれた悲しみ」を描くことへの覚悟がある。
昨年、私は母を亡くした。膵がんステージ4。医師から「1カ月もたない、間違いなく死にます」と告げられ、母はその場に倒れ込んだ。心の準備をする間もなく、戦う前に殺されたようなものだった。
結果的に、昨年は何もできなくなった。本が書ける状態ではなく、数冊の執筆オファーを見送った。一周忌が過ぎて、ようやく少し落ち着いてきた。そんな今だからこそ、本書の描く「喪失と再生」が胸に沁みる。
著者は特別な出来事を描かない。一緒に食べたもの、ふたりで歩いた道。そうした何気ない記憶の断片を丁寧にすくい上げていく。私にも思い当たる。母と最後に何を食べたか、何を話したか。そうした些細な記憶が、今となっては宝物のように思える。
タイトルの「今日もまだ」という言葉が象徴的だ。「会いたい」ではなく「今日もまだ会いたい」。この「まだ」には、時間が経っても癒えない痛みと、それでも日常を生きていかなければならない現実の両方が込められている。喪失は一度きりの出来事ではない。毎朝目覚めるたびに、ふとした瞬間に、繰り返し訪れるものだ。
本作でとりわけ目を引くのは、「大好きな母」と「ずっと苦手だった父」という対比である。親を看取るエッセイは美談になりがちだが、著者は父との複雑な関係から目を逸らさない。『余命300日の毒親』では、暴力を振るう父の介護という重いテーマに正面から向き合っている。その経験があるからこそ、本書には単純な感動物語に回収されない奥行きが生まれている。
親を亡くした悲しみは、実は驚くほど「ありふれている」。誰もがいつか経験する普遍的な喪失だ。だが、その普遍性こそが厄介でもある。「みんな経験すること」だからこそ、自分の悲しみをどう扱えばいいのかわからなくなる。
本書は、そうした迷子になった感情に寄り添ってくれる。「あなたの悲しみは特別ではない。でも、だからといって軽くはない」と。
もう会えない人への想いを抱えて生きる。それは特別なことではなく、人間として当たり前のことだ。本書は、その当たり前の重さを、静かに、しかし確かに伝えてくれる。
■ 採点結果
【基礎点】 44点/50点(テーマ、論理構造、完成度、訴求力)
【技術点】 20点/25点(文章技術、構成技術)
【内容点】 22点/25点(独創性、説得性)
■ 最終スコア 【86点/100点】
■ 評価ランク ★★★★ 推奨できる良書
■ 評価の根拠
【高評価ポイント】
- テーマの普遍性と深度:「ありふれた悲しみ」を描く覚悟があり、親を亡くした経験を持つ多くの読者の心に響く普遍的テーマを扱っている
- 構成の奥行き:「大好きな母」と「ずっと苦手だった父」という対比により、単純な美談に回収されない複雑な感情が描かれている。『余命300日の毒親』との連続性が作品に厚みを与えている
- タイトルの秀逸さ:「今日もまだ」という言葉に、時間が経っても癒えない痛みと日常を生きる現実の両方が凝縮されている
【課題・改善点】
- SNS発ゆえの構成的制約:各エピソードが短く断片的になりがちで、書籍版の描き下ろしで補完しているものの、全体の流れにやや継ぎ目が残る
- 介護エッセイとしての新規性:構成としては「介護エッセイの王道をなぞっている」面があり、ジャンル内での革新性は限定的
- 父との関係の掘り下げ:本書単体では父との複雑な関係の詳細が『余命300日の毒親』に委ねられており、本作内での完結性にやや欠ける
■ 総評
喪失の痛みを「特別ではないが軽くもない」ものとして描く誠実さが本書の核心である。SNS発のコミックエッセイという出自ながら、書籍版では40ページ以上の描き下ろしにより物語に一本の筋が通り、「喪失から再生へ」という普遍的テーマが著者の繊細な筆致で結実している。親を亡くした悲しみを抱える読者に静かに寄り添う、推奨できる良書である。
※本年度からこのような評価レポートを載せることにします。
尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)







