イエスの12弟子の中には大ヤコブと小ヤコブと呼ばれる2人の「ヤコブ」がいる。大ヤコブはゼベダイの息子で、洗礼ヨハネの兄。ペテロ、ヨハネと共にイエスの最側近だ。紀元44年頃、ヘロデ・アグリッパ1世によって処刑された。12弟子では最初に殉教した弟子だ。一方、小ヤコブはアルファイの息子だが、聖書で多くは記述されていなく、その人物像は不明だ。「アルファイ(Alphacus)」という名前は、当時のユダヤ社会では比較的ありふれた名前だ。新約聖書では使徒マタイも「アルファイの子」と言われていることから、小ヤコブとマタイは兄弟だったという説があるが、その真偽は不明だ。

聖小ヤコブ、ピーテル・パウル・ルーベンス画、1610~12年作品
ところで、なぜ「大」と「小」が付けられているのかについてはこれまでいろいろな説がある、一方が背が高く、他は低いとか、一方が年を取っており、他は若かったという説があるが、2人のヤコブを区別するためにつけられたもので、大小の意味はない、というのが通説だ。
当方は小ヤコブに強い関心をもっている。聖書には小ヤコブについてあまり書かれていないから、ある意味で当方が描いている小ヤコブ像ということになる。そのきっかけは米映画「選民」(原題:The Chosen)に登場する、足の不自由なヤコブの存在だ。その人物像が事実を伝えているかは分からない。
小ヤコブ役を演じているジョーダン・ウォーカー・ロス氏は、実際に脳性麻痺と脊柱側弯症を患っており、歩行に障がいがある。監督のダラス・ジェンキンス氏は、ロス氏の個性をそのまま役の設定に取り入れたという。聖書には小ヤコブの足が不自由だったという記述はない。監督の狙いは「癒やしの力を持つイエスの傍にいながら、なぜ自分は癒やされないのか?」という、小ヤコブの信仰上の深い葛藤を描く狙いがあったからだ、といわれている。

一番左端にいるのが小ヤコブ The Chosen より
イエスは当時、エルサレム神殿で足が不自由な人を癒し、悪霊に憑かれた女性を癒してきた。それを目撃してきた小ヤコブの心の中に「なぜイエスは私の足をも癒してくれないのか。私はイエスの弟子ではないか」という思いが沸いてきても当然だ。
イエスが弟子たちを2人1組で各地に送り出し、「病人を癒やす権威」を授けた際、小ヤコブは「自分自身の体を癒やさないイエスが、なぜ自分に他人の癒やしを命じるのか」と戸惑い、イエスにその理由を聞く。イエスは、彼を今すぐ癒やすことができると断ったうえで、「癒やしの体験を持つ人は大勢いるが、癒やされないまま神を賛美し続ける者は稀で、力強い証だ」というのだ。身体の不自由さを抱えながらもイエスに従い続ける姿こそが、同じように苦しむ人々にとっての希望になるというのだ。
イエスは全ての人を現世で癒すことはないという現実の信仰生活が浮かび上がる。世界に親しまれていたカトリック教会修道女テレサは貧者の救済に一生を捧げ、ノーベル平和賞(1979年)を受賞したが、彼女は生前、一通の書簡を残していた。その中で、「なぜ、コルカタ(カラカッタ)で死に行く多くの貧者を神は見捨てるのか」、「なぜ、全能な神は苦しむ人々を救わないのか」、「どうしてこのように病気、貧困、紛争が絶えないのか」等の問い掛けを記述していた。そして「神、イエスは何も答えてくれない」と呟いている。テレサは神の沈黙に苦しんでいる。
600万人以上のユダヤ人がナチス・ドイツ軍の蛮行の犠牲となった後、「なぜ神は多数のユダヤ人が殺害されるのを黙認されたか」「神はどこにいたのか」といったテーマが1960年から80年代にかけ神学界で話題となった。神学界ではそれを「アウシュヴィッツ以降の神学」と呼んでいる。ユダヤ人作家で1986年のノーベル平和賞受賞者エリ・ヴィーゼル氏(1928~2016年)は自身のホロコースト体験を書いた著書「夜」の中で、「神はアウシュヴィッツで裁判にかけられた。その判決は有罪だった」と述べている。アウシュヴィッツ以降、神の全能性、善性に疑問が呈されていったわけだ。同時に、「神の死」の神学が1960年代に登場してきた。
映画では12弟子の一人トーマスの葛藤を描いている。トーマスは自分の婚約者ラーマが亡くなった時、イエスがなぜ彼女を復活させないのかを考え悩む。なぜならば、その前に、イエスは死んだラザロを復活させていたからだ。トーマスはイエスがラーマを生き返させてくれなかったことに強い憤りを抱き、イエスを不信し始め、信仰の危機に陥る。イエスはトーマスに対し、「今はまだその理由を理解できないが、彼女を愛しており、すべてには時がある(It is not her time)」と告げる。
小ヤコブとトーマスではその対応は対照的だ。トーマスは 私たちの「理解できない苦しみや怒り」の代弁者であり、小ヤコブは「答えがない中でも歩み続ける信仰」の象徴として映画では描かれているのだ。 制作者のダラス・ジェンキンスは、この対比を通じて「なぜ善い人に悪いことが起きるのか」「なぜ祈りが聞き届けられないのか」という、現代の信者たちが直面する普遍的な問いを描こうとしているのだろう。
最後に、なぜ当方は今、「小ヤコブの話」を紹介したかの背景を少し説明する。当方は1年半前頃から足が悪くなり、通常の歩行が難しくなった。自由に歩ける時代が懐かしく、もう一度自由に歩けるようにならないかと考えることが多くなった。少々大袈裟な表現だが、足の不自由な小ヤコブの苦悩を身近に感じ出してきたのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年3月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







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