駐イスラエルのハッカビー米大使が先月、米保守派タッカー・カールソン氏とのインタビューの中で、「聖書の記述」に基づき、イスラエルにはエジプトの川(ナイル川)からユーフラテス川に至るまでの広大な土地に対する権利があるという趣旨の考えを明らかにし、「(イスラエルが)それらすべてを手に入れたとしても構わない」と述べたことから、アラブ・イスラム教国で激しい非難が出てきたことはまだ記憶に新しい。

ネタニヤフ首相がアシュドッド港を訪問,2026年3月10日、イスラエル首相府公式サイトから
アラブニュースなどは、「米大使の発言は、アラブ全域をイスラエルが奪うことを肯定するものであり、主権国家(エジプト、レバノン、シリア、イラクなど)の領土を否定する大イスラエルの野望を露骨に示したものだ」と報じたほどだ。
ところで、ハッカビー大使が根拠とした聖書は創世記第15勝18節だ。神はアブラハムと契約を結び、エジプトの川からユーフラテス川までの領土を子孫に与えると約束した。「エジプトの川」とは一般的には、シナイ半島東部のワディ・エル・アリシュ(現在のエジプト領内)を指すと解釈され、「ユーフラテス川」とは、:現在のイラクやシリアを流れる大河だ。この境界を採用すると、イスラエル国家の領土はヨルダン、レバノン、シリアの大部分、イラクの一部、さらにはサウジアラビアの一部までが含まれることになる。
ただし、神がいう「約束の地」はアブラハムに向かって語った内容だ。イスラエルという称号を得る前の話だ。アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三宗教において「信仰の父」であり、彼の息子であるイサク(ユダヤ人の祖とされる)とイシュマエル(アラブ人の祖とされる)の両方の父であるため、その約束は「両者に向かって語られた」と受け取るべきだろう。すなわち、「エジプトの川からユーフラテス川に到る広大な土地を神はイサクとイシュマエルの民に分け与えると述べているのだ。それを後日、ユダヤ教徒とキリスト教徒は「自らに与えられた神の約束の地」と受け取ってきたわけだ。
実際、神は後日、イスラエルの民を率いて出エジプトしたモーセに対して「約束の地」を与えると約束している。旧約聖書「民数記」第 34章によると、地中海からヨルダン川周辺までの、現在のパレスチナ・イスラエルに近い領土だ(カナン)だ。神がイスラエルの民に約束した地は「エジプトの川からユーフラテス川に到る広大な土地」ではなく、「現在のパレスチナ(カナン)の地」と明記されているのだ。
ハッカビー米大使の発言内容は、パレスチナ民族とイスラエルの「 2国家解決」を完全に無視しているだけではなく、イスラエルとアラブ諸国の関係正常化(アブラハム合意)は水泡に帰すことになる。 ハッカビー氏は福音派キリスト教徒としての信仰(終末論)を外交政策に持ち込むことで、現実的な国家運営や国際関係を損なっているわけだ。
ハッカビー氏の発言は、イスラエルにパレスチナおよびアラブ領土の強奪を正当化・奨励する大イスラエル主義を鼓舞している、と受け取られても仕方がない面がある。数千年前の聖典の記述を、現代の主権国家の国境線(ウエストファリア体制)にそのまま適用しようとした点に問題がある。アブラハムの時代には存在しなかった現代のエジプト、ヨルダン、シリア、イラク、サウジアラビアなどの国々にとって、聖書を根拠にした領土主張は、自国の国家主権の否定に他ならない。
今回提示したい点は、アブラハムの約束を、現代の政治的な「排他的な所有権」としてではなく、「共通の平和の原点」として語ることは可能か、ということだ。
ハッカビー大使の発言が物議を醸したのは、アブラハムの約束を「自分たちだけのもの(排他的)」と解釈したからだ。しかし、アブラハム合意の精神は、「同じ父を持つ者同士、この土地で共存する権利がある」という「共有」の論理に基づいている。神学的に「イシュマエル(アラブの祖)」とイサク(ユダヤの祖)」が父アブラハムを共に埋葬した(創世記25章)という記述は、和解の究極のシンボルと受け取れるのだ。
ヤコブが兄エサウと和解し、その葛藤を乗り越えた末に「イスラエル(神と人と闘って勝った者)」の名を授かったプロセスは、まさに「他者(敵対者)との和合」が神の祝福の条件であることを示唆している。
イサクとイシュマエルの関係においても、同様のことが言える。聖書(創世記)では、イシュマエルは「約束の継承者」から外され、母ハガルと共に荒野へ追放された。もしイサクが、父アブラブハムの財産や祝福を独占するのではなく、追放された兄イシュマエルの孤独や苦しみに「同情と理解」を示していたら、その後の数千年にわたる子孫同士の対立の根源は取り除かれていたかもしれない。「選ばれた者」が「選ばれなかった者」の痛みを分かち合うという姿勢こそが、真の和解の第一歩だからだ。
もう少し哲学的に表現すれば、「選ばれた民」という自認が、他者を排除する理由ではなく、「他者を包摂する責任」へと止揚すべきだということだ。アベルがカインに、イサクがイシュマエル、ヤコブがエソウに対して、同じことが言えるのではないか。
神から選ばれた民族という「選民意識」は素晴らしいが、その意識が他者に対して排斥となれば問題が生じる。このことは、イスラエルのガザ紛争でのパレスチナ人への対応にも言える。「選ばれた民族」であるからこそ、「選ばれなかった民族」に対して謙虚であるべきであり、排斥ではなく、神の祝福を共有すべきだ。「選ばれた民族」には「他者を包摂する責任」があるからだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年3月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







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