同志社元教授、遺族に「娘の意思を代弁するな」と言いつつ自分たちは政治利用

沖縄県名護市辺野古沖で発生した抗議船転覆事故をめぐり、元同志社大学大学院教授の浅野健一氏の発言が批判を浴びている。浅野氏は、事故で亡くなった同志社国際高校2年の武石知華さんの遺族がnoteで情報発信していることについて、「親が亡くなった娘の意思を代弁すべきではないのではないか」と疑問を呈した。しかし、その発言は、浅野氏が参加した学習会の趣旨や告知文の内容と照らすと、あまりにも大きな矛盾を含んでいる。浅野氏は、元共同通信の記者でもある。

【参照リンク】「娘の意思、代弁すべきでないのでは」 元同志社大教授が辺野古事故遺族の投稿を疑問視 産経新聞

  • 遺族は事故後、noteなどを通じて、事故の経緯や報道への疑問、誤情報の訂正などについて発信を続けてきた。
  • ところが、元同志社大学大学院教授の浅野健一氏は、那覇市内で開かれた学習会で、この遺族の発信に疑問を呈した。

浅野健一元共同通信記者、元・同志社大学大学院メディア学専攻教授 Wikipediaより

  • 浅野氏は「たとえ親子でも別人格であり、親が亡くなった娘の意思を代弁すべきではないのではないか」と述べた。
  • 一見すると、個人の人格や意思を尊重する発言のようにも聞こえる。しかし問題は、浅野氏自身が参加した学習会との整合性である。
  • この学習会のタイトルは「抗議船転覆事故乗り越え、辺野古新基地建設阻止を強化しよう」だった。
  • 事故で亡くなった女子生徒の死を、辺野古新基地建設阻止という政治運動の文脈に位置づける催しだった。
  • さらに告知チラシには、「亡くなった生徒と牧師が天国で、高市自民党政権をどう見ているか考えたい」と記されていた。
  • これは、亡くなった本人の意思を確認できないにもかかわらず、死者を政治的主張の中に組み込む表現である。
  • 浅野氏は遺族に対しては「娘の意思を代弁するな」と言いながら、「娘の意思を代弁すべきでない」と被害者の意思を勝手に代弁していた。
  • ここに、この発言の最大の矛盾がある。
  • 親が亡くなった娘について語ることは問題視する一方で、政治運動の側が亡くなった少女を象徴として扱うことには疑問を示さない。
  • 遺族の発信は「代弁」と批判され、運動側の発信は「追悼」や「問題提起」として許されるのだとすれば、それは人権論ではなく、単なる政治的ご都合主義である。
  • 浅野氏は「同志社に対するバッシングが広がることは女子学生は望んでいないのでは」とも述べた。
  • しかし、これもまた本人の意思を推測している点では、浅野氏が批判した「代弁」そのものではないか。
  • 「女子学生は望んでいないのでは」と語る浅野氏自身が、亡くなった生徒の意思を勝手に推測している。
  • 遺族には代弁するなと言いながら、自分は「望んでいないのでは」と代弁する。この論理矛盾はあまりに明白である。
  • そもそも、遺族が発信しているのは、単に亡くなった娘の心情を推測するためではない。
  • 事故の事実関係を明らかにし、報道や学校側の対応に疑問を呈し、誤情報を訂正するための発信である。
  • 被害者遺族が事故について語ることは、社会的にも当然認められるべき行為である。
  • それを「代弁」という言葉で封じ込めようとする姿勢は、遺族の表現の自由を軽んじるものだ。
  • 浅野氏は「人権と報道」を語る立場にある人物とされるが、今回の発言は、その看板と大きく食い違っている。
  • 浅野氏は元同志社大学教授であるが、元共同通信の記者でもある。

  • 人権を重視するなら、まず守られるべきは、政治運動にとって都合の悪い遺族の声である。
  • ところが浅野氏の発言からは、遺族の痛みに寄り添う姿勢よりも、学校法人や反基地運動への批判を抑えたい意図が透けて見える。
  • ネット上で批判が広がったのも当然である。
  • 「遺族の痛みを踏みにじる発言だ」「赤の他人が死者を政治利用するのは許し、親の発信は許さないのか」「人権専門家のダブルスタンダードだ」といった声が相次いだ。
  • 遺族も上記のようにXで浅野氏の発言に反論し、その投稿は大きな反響を呼んだ。
  • この問題は、単なる失言では済まされない。
  • 浅野氏の発言は、死者の意思を誰が語ることを許され、誰が語ることを禁じられるのかという重大な問題を含んでいる。
  • もし遺族の発信を「代弁」として批判するなら、政治運動が死者を象徴として利用することにも同じ基準を適用しなければならない。
  • その基準を自分たちの側にだけ甘く適用するなら、それは人権でも報道倫理でもなく、政治的な二重基準にすぎない。

浅野健一氏の発言の問題点は、遺族に対して「亡くなった娘の意思を代弁するな」と言いながら、自らは「女子学生は望んでいないのでは」と死者の意思を推測し、さらに死者を政治運動の文脈に置く学習会に関わっていた点にある。これは明らかな矛盾である。遺族の声を封じ、運動側の都合のよい語りだけを許すのであれば、それは人権の名を借りた政治的ご都合主義でしかない。

同志社大学HPより

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