
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、次回から豊臣秀吉の「軍師」とされる黒田官兵衛が登場するようである。秀吉の出世と天下取りを支えた「両兵衛」の一人、黒田官兵衛(孝高)の存在は、戦国ファンの間で広く知られていよう。
歴史学者の小和田哲男氏は黒田官兵衛を「戦国時代のもっとも軍師らしい軍師」と評し、「極端な話、秀吉の帷幄に官兵衛がいなければ、秀吉が果たして天下を取ることができたか疑問である」とまで褒めちぎる。
このような評価は小和田氏に限ったことではなく、今日、官兵衛は大衆向けの歴史雑誌や自己啓発的な歴史本において、トップを支える名参謀の理想像としてしばしば語られる。けれども、それは歴史の真実を捉えているとは言い難い。
本稿では、神格化された「軍師官兵衛」のベールを剥ぎ取り、一次史料が語る等身大の姿を浮き彫りにする。まずは、この巨大なフィクションの震源地となった『黒田家譜』の作為から暴いていこう。
虚像の震源地:『黒田家譜』による官兵衛顕彰
我々が抱く黒田官兵衛のイメージの多くは、官兵衛の没後約100年を経た宝永元年(1704年)に完成した『黒田家譜』に端を発する。同書は、筑前福岡藩の3代藩主・黒田光之が藩お抱えの儒学者である貝原益軒に命じて編纂させたものである。当然、同書には藩の始祖である官兵衛の事績を誇張し、英雄として顕彰する意図が強く働いている。
『黒田家譜』は、官兵衛が秀吉を助けた功績は、漢の張良が劉邦を助け、明の劉基が朱元璋(洪武帝)を助けた功績を上回るとまで述べている。そして後発の軍記類・逸話集はこの「軍師」像を無批判に踏襲した。
さらに幕末から明治にかけての『名将言行録』や、昭和期の海音寺潮五郎らによる歴史小説を通じて、「底知れぬ智謀を持つ、野心に満ちた危険な策士」という官兵衛像が定着・強化されていったのである。
さて『黒田家譜』によれば、播磨(現在の兵庫県南西部)の国衆、小寺家の家臣であった黒田官兵衛は天正3年(1575年)に織田信長の天下を予言し、(毛利ではなく)信長への臣従を提案した。この時、官兵衛は自ら信長への使者を志願し、主君・小寺政職から「小寺」の姓を賜ったとされる。しかし、実際には父・職隆の代から既に黒田家は主家の名字である「小寺」を名乗っており、この逸話は発端部分から疑わしい。
さらに『黒田家譜』は、小寺政職の使者として岐阜を訪れた黒田官兵衛が羽柴秀吉を取次役(仲介役)として織田信長に謁見し、中国地方攻略の方策を説いて信長を感心させたと記すが、『信長公記』など信頼できる史料には謁見の記述が存在しない。
小和田氏も指摘するように、当時の秀吉は播磨と全く接点を持っておらず、地理的に考えれば、播磨の隣国である摂津(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)を治める信長の重臣・荒木村重を交渉の窓口にするのが自然である。
官兵衛が秀吉を頼ったというくだりは、後に秀吉が信長から「中国方面軍司令官」に任命され、官兵衛がその「与力」となったという結果から逆算した脚色と見るのが妥当である。謁見自体も架空の出来事だろう。
この時期、播磨の国衆たちは一斉に信長に臣従しており、小寺氏もその趨勢に従っただけと考えられる。『信長公記』によれば、天正3年(1575年)10月に、小寺政職自身が信長のもとに挨拶に赴いている。黒田官兵衛の献策に従って小寺氏が信長に服属したという逸話は、官兵衛を天下の行方を見通す天才的な軍略家として印象づけるために『黒田家譜』が創作したと見るべきである。
秀吉「与力」としての実態
天正5年(1577年)8月、上杉謙信と戦うために北陸に出陣していた羽柴秀吉は、総大将(北陸方面軍司令官)の柴田勝家と対立し、無断で撤退するという暴挙に及んだ。この敵前逃亡は織田信長の逆鱗に触れたが、その直後に松永久秀が謀反を起こしたこともあり、秀吉はほどなく赦免され、久秀が籠る信貴山城攻めに参加している。
同年9月、信長は中国地方での攻勢(毛利攻め)を期し、羽柴秀吉の播磨派遣を決定し、その旨を黒田官兵衛に通知している(「黒田家文書」)。ただし同年6月には、秀吉は官兵衛と書状のやりとりを開始しており(「黒田家文書」)、正式決定以前から、秀吉が「中国方面軍司令官」として播磨に進出することは内定していたと思われる。
同年7月(天正6年7月説もある)に秀吉が官兵衛に宛てた書状では、「あなたのことは弟の小一郎(秀長)同然に信頼している」と述べており(「黒田家文書」)、秀吉が播磨平定のキーマンとして官兵衛を重視していたことがうかがえる。ただし、秀吉と官兵衛が直接対面したのは、秀吉が播磨に下向した10月以降であろう。よく知られているように、官兵衛は自分の居城である姫路城を秀吉に提供した。これは思い切った決断であり、秀吉と官兵衛の親密な関係が浮かび上がる。
『黒田家譜』には、「秀吉既に播州に下り給ひて後、常に孝高を近づけ、諸事を相談して、事を決断し、其智謀を取り用給ふ」とある。さらに同書によれば、秀吉は以前から官兵衛の評判を耳にしており、今また官兵衛を目の当たりにして、その才智・武略が優れていることを知り、ただ者ではないと見抜き、官兵衛に対して「これからは貴殿と何事も相談して助言を受けたい。兄弟のように付き合おう」と語ったという。同書は、明らかに官兵衛を「軍師」的な存在として位置づけている。
しかしながら、黒田官兵衛を「軍師」とみなすことはできない。確かに、秀吉が織田信長の家臣として中国地方を攻略していた際、特にその初期に行われた播磨平定戦において、現地播磨の武士である官兵衛の果たした役割は大きかったと考えられる。
土地勘があり、人脈を持ち、現地の事情に詳しい官兵衛に秀吉はしばしば助言を乞うたであろう。その意味では、この時期の官兵衛は秀吉の相談役であった。ただ、それは現地の案内役としての貢献であり、「軍師」とは形容しがたい。
たとえば秀吉の奇策として名高い高松城水攻めにおいて、官兵衛が速やかに堤防を築いたという話も、『黒田家譜』が発信源である。ところが、官兵衛に土木技術があったことを示す史料はない。
秀吉の御伽衆(話し相手)であった大村由己が著した『惟任退治記』は「秀吉工夫をなして、水攻めの行をなす」とのみ記しており、官兵衛の貢献には言及していない。中国大返しにおける官兵衛の軍略面での貢献も『黒田家譜』によって拡散されたものであり、信頼できる史料からは確認できない。
一般に「軍師」というと、劉備に対する諸葛亮のような存在をイメージするが、黒田官兵衛の羽柴家における地位は、そのようなものではなかった。当時の羽柴家における真のナンバー2は、秀吉の弟である小一郎長秀(のちの秀長)であり、秀吉の一門衆を除いた場合でも、筆頭家老的な存在であった蜂須賀小六(正勝)の方が官兵衛よりも上位に位置していた。
なお、黒田官兵衛の虚像と実像についての詳細は、来月発売予定の拙著『軍師の日本史』(角川新書)をご参照いただきたい。








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