
次世代フードテックの一翼を担う食品である、いわゆる「培養肉」。
昨年の大阪・関西万博で「家庭で作る霜降り肉」が展示されたので、それで培養肉を知った、あるいは実物を見たという方がいらっしゃるかもしれない。
動物を屠畜せずに肉を得ることができるとは何やらSFめいた話だが、インテグリカルチャーが2027年の商用化を発表しているので、来年にも私たちは培養肉を口にできるかもしれない。
なお、この「培養肉」という表現、実はあまり使ってはよろしくないのである。
今年の3月10日、(一社)細胞農業研究機構(JACA)とフードテック官民協議会の細胞農業ワーキングチームが「細胞性食品に係るコミュニケーションポリシー(推奨・非推奨表現集)」(以下、JACAポリシー)を公表した。
本ポリシーでは、「培養」という語が消費者にとってなじみのない技術用語であり、「『容易に肉をまるまる生産可能な技術』『細胞性食品分野は食肉などの分野と競合する』などの誤解や不安を生じさせ、既存業界との軋轢を助長しやすい」との理由からこの表現を推奨せず、代わりに「細胞性食品」と表現することを推奨している(本稿では便宜的に「培養肉」と表記する)。
「細胞性食品」も十分なじみにくい表現に思えるが、食農倫理および表象マーケティングの観点から見ると、このJACAポリシーはなかなか掘り下げがいのある文書である。
特に注目したいのは、このポリシーが「動物を殺さず(と畜・と殺せず)に作る肉」という表現も非推奨に位置づけていることだ。「感情的・対立的に受け取られやすい」というのが、その根拠である。
代わりに、「資源効率性」や「供給安定」「たんぱく源の多様化」といった表現などを推している。なお、「代替」もよろしくない。既存の畜産業などを「置き換える」ように受け取られ、対立や軋轢を招きかねないからである。
これは単なる言葉遣いの問題ではない。2000年代以降、培養肉を支えてきた正当化の論理が、「倫理」から「便益」へと移行していることを示している。
もともと培養肉は動物倫理(動物福祉や動物の権利)と極めて深く結びついた技術だった。培養肉研究を2000年代から支援してきたNew HarvestというNPOは、「動物を使わずに動物由来食品を生産する」という理念を掲げていたし、動物倫理学の代表的哲学者ピーター・シンガーは世界初の培養肉ハンバーガーを「残酷性のないハンバーガー(cruelty-free hamburger)」と形容し、工場畜産による苦痛を終わらせる可能性を高く評価した(彼は喜んで培養肉を試食したいと述べた)。
培養肉・プラントベース食品を推進する世界的シンクタンクGood Food Institute(GFI)の創設者ブルース・フリードリヒは、動物の権利団体として有名なPETAの元活動家であるし、UPSIDE FoodsやMosa Meatといった培養肉ベンチャーは、動物の屠畜を不要・最小化できることを培養肉の中核的価値として打ち出してきた。
つまり、培養肉はもともと「動物を殺さない肉」であることを強みとして社会に登場した技術だったのである(この歴史的展開についてはこちらで詳述)。
培養肉の倫理的正当化の歴史を知る者から見れば、「動物を殺さない肉」の看板を下ろすことは意外な転換に映るが、この理由は単純である。
倫理的訴求は支持者を集める一方で、反対者も生み出すからである。
「工場畜産をなくすべきだ」「動物利用(搾取)は間違っている」という主張は動物倫理支持層には響くが、畜産関係者や一般消費者の一部には攻撃的なメッセージとして受け取られる。
JACAポリシーが、対立・反発・軋轢・誤解の回避に腐心しつつ、「資源効率性」「供給安定」「たんぱく源の多様化」「『日本の強み』『日本にしかない技術』を活用する文脈」といった便益を強調したコミュニケーションを推奨しているように、培養肉業界は「正しいから普及する」ではなく、「役に立つから普及する」という説明へと軸足を移しつつある。
私はこれを「倫理的訴求中心モデル」から「便益訴求中心モデル」への転換と呼びたい。
実はこの転換は培養肉に限る話ではない。
オーガニックもフェアトレードもアニマルウェルフェアも、普及初期には倫理的な支持者によって支えられる。しかし市場拡大の段階になると、「環境に良い」「途上国の生産者に良い」「動物に良い」よりも「美味しい」「健康的」「安心できる」といった消費者便益が重要になる。
プラントベース食品の普及研究でも、アーリーアダプター(初期採用者)は倫理的動機が強い一方、それに続くアーリーマジョリティ(前期追随者)では味や健康といった消費者便益が重視されることが示されている。
その意味で、JACAの判断はマーケティングとしては合理的である。実際、GFIも中立的な表現を模索し、2019年には中立的かつ魅力度の高い言葉として「培養肉(cultivated meat)」を採用する方針を明確にしている。
しかし興味深いのは、JACAの判断は、GFIよりもある意味徹底していることである。GFIも「屠畜不要」という表現を避けるようになっているが、動物倫理自体を否定しているわけではない。GFIが重んじるのは中立性である。
しかし、JACAポリシーは動物倫理的訴求を「感情的」「対立的」と表現する。私はここに日本社会特有のアンコンシャスバイアスを見る。日本では動物倫理や動物保護運動はしばしば感情論として扱われるが、哲学や倫理学の世界では動物倫理はすでに確立した研究分野である。賛否はあっても、単なる感情論として片づけられる存在ではない。
にもかかわらず、「動物を殺さない肉」という主張を感情的とみなすのは、動物倫理そのものではなく、動物倫理を語る人々への社会的イメージが投影されているからではないだろうか。JACAポリシーは、培養肉の表象戦略を転換しただけではなく、日本における動物倫理の立ち位置も意図せず可視化しているのである。
では、はたしてJACAの戦略は成功するのだろうか。
動物倫理を後景化することで反発は減らせよう。しかし同時に、なぜ高価格な培養肉を選ぶのかという理由も弱くなる。味も価格も従来の食肉と大差ない段階になれば消費者便益だけで十分かもしれない。だが普及初期の高価格商品を支えるのは、しばしば、倫理や理念への共感である。
倫理的に意味づけられた技術は、その理念を語り続けて支持者を惹きつけることと、実利を強調して普及を図ることの両輪が必要である。
JACAポリシーが提起しているのは、単なるネーミングの問題ではない。培養肉の表現をめぐる試行錯誤は、この舵取りの難しさを象徴しているのである。
■
秋山 卓哉
食農倫理研究所 代表。食と農をめぐる価値対立や政策・産業の倫理を専門に研究。食にまつわる自由、環境倫理、動物倫理、公衆衛生、食文化、消費者選択を軸に国内外の動向を分析・発信。







コメント