「核を持てば安全」という神話の終わり:ウクライナとイスラエルが示す核抑止の限界

「クモの巣作戦」が暴いた現実

2025年6月、ウクライナの治安機関は驚くべき作戦を実行した。トラックに偽装した短距離攻撃用ドローンをロシア国内に密かに持ち込み、アムール州(中国国境付近)まで含む複数の空軍基地周辺に配置。ロシアの携帯電話網を使って遠隔起動させ、核兵器搭載可能な戦略爆撃機を少なくとも10機破壊、合計41機を損傷させた。費用はドローン1機あたりわずか500ドルで、数千万ドル相当の戦略爆撃機を撃破したという。

この「スパイダーズ・ウェブ作戦」の本質的な衝撃は、コストパフォーマンスの異常さではない。ロシアという核大国の戦略的核心に、非核国が通常戦力で手を出し、しかもロシアはそれを防げなかったという事実そのものである。ロシアは長年、戦略資産への通常戻撃が核報復を招きうると示唆してきた。だがウクライナはそれを呼んで動かず、実際に行動した。そしてロシアは核の引き金を引かなかった。

ウクライナのドローンがモスクワを攻撃したようす ウクライナ政府HPより

ローズ・ゴッテモーラー氏(元NATO事務副総長)は、これを単発の事件ではなくより大きな潮流の一例だと位置づける。「核兵器を持てば守られる」という長年の前提が、世界各地で次々と崩れているというのである。

「核を持っていれば防げた」論への反証

ウクライナへの全面侵攻が始まった2022年以降、「1994年にウクライナが核を放棄したのは誤りだった」「核があればロシアは攻めてこなかった」という言説が広く流布した。同様に「イランが核を持っていればイスラエル・米国の攻撃を防げた」という主張もある。

しかし筆者が並べる事例は、この論理が現実とは逆方向に働いていることを示す。

  • イスラエル:核保有が既知されているにもかかわらず、ハマス、ヒズボラ、フーシ派、イランから繰り返し攻撃を受けている。2026年3月にはイランがイスラエルのプルトニウム生産炉を直接狙った。核兵器が攻撃の抑止力どころか、むしろ攻撃対象としての「磁石」になっている。
  • インド・パキスタン:両国とも核保有国でありながら、2025年5月に今世紀最大規模の通常戦争に突入した。
  • ロシア:戦略爆撃機を破壊されても、追加の核威嚇すら行わず、通常戦力(ドローン400機・ミサイル40発)でキーウを攻撃するにとどまった。

筆者の結論は明快である。「核兵器を持つことは、通常戦力やハイブリッド戦の抑止にはほとんど効果がない」。核保有国が実際に核を使う意思を見せない限り、ICBM・潜水艦・戦略爆撃機の編隊は、安価なドローンの波を止める力を持たない。

なぜ「核は抑止になる」と思い込んでしまうのか

ここで重要なのは、筆者が核抑止が完全に無効だと言っているわけではない点である。米露間では今も「先制攻撃の安定」が機能しており、これが冷戦型の核抑止を支えている。米露がそれぞれ約4000発の核弾頭を持つという物量そのものが、両国に極度の慎重さを強いているとも言える。

つまり核抑止が機能する場面と機能しない場面があるということだ。

  • 機能する場面:超大国同士の、互いに報復能力を確保し合った対称的な核保有関係(米露、いずれは米中露の三者関係)
  • 機能しない場面:非対称な関係(核保有国 vs 非核国・非国家主体)における、限定的・段階的な通常戦力やハイブリッド戦

日本で核保有や核共有が論じられるとき、想定されているのはしばしば前者のイメージ――「核を持てば大国に対等に渡り合える」という発想である。しかし現実の脅威はむしろ後者の構造、つまりグレーゾーンでの限定的な攻撃にどう対処するかという問題に近い。この記事が示すのは、核兵器がまさにこの種の脅威に対して無力だということである。

日本の核保有論・核共有論への教訓

近年、日本でも核保有論や核共有(ニュークリア・シェアリング)を求める声が、一部の論者や政治家から出ている。韓国や、記事にも言及があるようにポーランド・ドイツでも同様の議論が起きている。この記事はこうした主張に冷水を浴びせる材料を提供している。

第一に、核保有は「安心」を保証しない。 イスラエルの事例が象徴的だ。核保有が広く知られている国でさえ、ミサイル・ドローンによる攻撃を防げていない。むしろ核施設そのものが狙われるリスクが生まれている。日本が核を持てば、北朝鮮や中国からの通常戦力・ハイブリッド攻撃が止まる、という期待は、この記事が並べる実例からは支持されない。

第二に、核保有には新たな脆弱性が伴う。 ロシアの戦略爆撃機が安価なドローンで破壊された事実は、核戦力を持つこと自体が新たな攻撃目標を生み出すという逆説を示す。日本のように国土が狭く、潜在的な核関連施設の立地が限定される国では、この脆弱性はむしろ深刻になりうる。

第三に、「核共有」も同じ限界を免れない。 核共有とは、同盟国の核兵器を自国領内に配備し、有事に使用判断へ関与する仕組みだが、これは結局「核兵器が存在すること」を前提とした抑止モデルである。この記事が指摘するのは、核兵器の存在そのものが、通常戦力主体の攻撃に対して有効な抑止になっていないという構造的な問題だ。核共有を行ったところで、この限界は解消されない。

第四に、必要なのは核ではなく「拒否的抑止」への投資である。 筆者はイスラエルのミサイル防衛網に代表される多層防空・ミサイル防衛、そしてウクライナが開発した低コストのドローン対処システムを「拒否による抑止」(攻撃を仕掛けても無駄だと思わせる抑止)の例として挙げる。核兵器の近代化に巨費を投じるより、こうした強靱性への投資の方が有効だという主張は、防衛費の配分を巡る日本の議論にも直接関係する。

拡大核抑止への依存にも限界がある

この記事はもう一点、日本にとって重要な論点を含んでいる。米国の「拡大核抑止」への懐疑である。

筆者は、中国の核戦力増強によって米国が中露という二つの核保有大国と同時に向き合う事態になれば、米国の拡大核抑止が弱まり、同盟国が通常戦力による攻撃に対して脆弱になりうると警告する。これはまさに日本が置かれている立場そのものだ。

ただし、この記事の結論は「だから自前の核を持て」ではない。むしろ同盟国は米国の核戦力配備が「機能する状態に保たれているか」を自ら確認し、通常戦力による防衛・強靱性を独自に強化すべきだという方向を示している。米国の大統領が誰であっても核の傘が確実に機能するとは限らない、という指摘は手厳しいが、その対応策として提示されるのは核武装ではなく、防空・ミサイル防衛とレジリエンスの強化である。

核は「持てば安心」の道具ではない

この記事が描く2025-26年の世界は、核兵器が「最終的な安全保障の道具」ではなく、むしろ機能不全と新たな脆弱性を併せ持つ、扱いの難しい道具になっていることを示している。ウクライナはロシアの核戦力そのものを攻撃し、ロシアは核を使わなかった。イスラエルは核を持ちながら連日ミサイル攻撃に晒され、ミサイル防衛への依存を強めている。

日本国内で核保有や核共有を論じる際、しばしば前提とされるのは「核さえあれば抑止が完成する」という単純な図式である。しかし本記事が示す実例は、この図式が非対称な脅威に対しては機能しないことを繰り返し証明している。核武装論を語る前に、まず問うべきは「想定する脅威は何か」であり、その脅威に核兵器が本当に効くのかという、この記事が突きつけた不快な問いから逃げるべきではない。

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント