
その気になれば衆院での再可決を使って、自民党だけでなんでも決めれる勢力図を先日「党が所有した国家」に喩えたが、いよいよそれが牙をむく気配がある。ご存じの、定数削減の問題だ。

2月の選挙でバカ勝ちさせてしまったので、自民党単独でも衆院の3分の2を得ているが、厄介なのは隣で「オラ、やれ!」と煽る与党があることだ。このままだと、本当にそうなりかねない。

小選挙区の欠点を埋めるための比例代表なのに、その比例だけを削ろうとする態度は、「俺らは選挙区で勝てるからいい」という居直りだ。全党に関わる選挙のルールを、一部のエゴで決めたら、議会政治は壊れてしまう。
そこまで与党が驕るのも、選挙区で落ちて比例で復活するのは “ゾンビ議員” だという揶揄を、真に受ける人が多いからだ。その一掃を掲げれば「むしろウケるんじゃね?」と踏んでいて、悪いことに読みが当たってもいる。

共同通信世論調査で、衆院議員定数を45削減する法案について、「急ぐ必要はない」が49.1%、「急ぐ必要がある」が46.1%だった。
2026.6.21(強調を追加)
ここに勘違いの根幹がある。比例復活がゾンビに見えるのは、実は小選挙区の勝敗を “先に” 報じるがゆえの錯覚だ。
ぼくが言うだけだと信じない人が多いので、今回は「専門家」を呼んでこよう(笑)。日独の比較政治が専門の加藤秀治郎氏は、2003年刊の『日本の選挙』で、こう書いている。

だが重複立候補は、開票作業で比例の方を先にすると、まったく別の印象となる。
〔最初に導入された〕1996年の例でいうと自民党は東京ブロックの比例代表で5議席となった。まず「これで名簿1位の深谷隆司・元自治相の議席は確保された」。次に小選挙区を開票したら、東京2区で深谷氏はダメだったが、もう比例で確保されているからよいとなる。
「ゾンビ」呼ばわりは不当で、政党本位という点さえ確認されていれば、何も問題はないのだ。このように開票の順番を変えるだけで印象は一変し、誰にでも理解できる。議論の多くは感情論でしかないのである。
177頁(表記を改め、改行を付与)
続く178頁では、明るい選挙推進協会の調査に基づき、比例での “復活当選” を納得できないとする意見が、「1回目(1996年)には50.9%もあったが、2回目(2000年)には28.3%に激減している」とも添えている。
ところがそうした学習の効果は、「誰かにあたり散らしたい」人が多い世相になると、吹っ飛んでしまう。政治が国民を裏切り、そんな人を散々増やした果てに、根性焼きめいた “議員減らし” がウケるいまの政局がある。

これに対抗するには、政治家の “引きずり下ろし” ではなく「夢のある選び方」につながる制度の案を、代わりに出すしかない。
たとえば前に「女性議員を増やす」形でジェンダーギャップを改善するなら、かつて試した選挙制度に戻すだけで十分だと書いたけど、それも加藤著のコラム(39-41頁)がきっかけだった。

1946年、婦人参政権が認められた戦後最初の衆議院選挙で39人の女性代議士を誕生させて以来、長年女性の衆院議員数はこの数字を下回り続けました。ようやく記録が更新されたのは、女性の新人が落下傘候補に多数起用された、2005年の「郵政選挙」です。
戦前からの偏見が残り、今よりはるかに「遅れていた」はずの時期にここまで女性が当選したのは一見不思議ですが、やはり内実を見ることが大事です。実は、日本の選挙が原則として「単記制(1人の候補に絞って投票する)」なのに対し、1946年の総選挙のみは例外的に「連記制」で、有権者は2~3人の候補に投票しました。
(中 略)
いま風にいえば「ジェンダー平等」の意識から、2人に投票できるなら男女1人ずつが好ましいと判断した有権者も、いたかもしれません。
『Wedge』2024年3月号の拙稿より
あるいは小選挙区・比例区の2本立てを前提にしても、比例区を設ける目的をまったく別の形に定義しなおせば、「比例だけ削ろう」みたいな話にはならない。そんな提案は、現にあった。
(旧)公明党の機関誌『公明』7月号のインタビュー「”原理主義を抑える” 中道政治の本懐をいまこそ」では、世代間格差への批判が初めて高まった平成半ばに熱く語られたビジョンを、改めて中道改革連合に提言してみた。

若者の閉塞感を打破するために、衆院の比例区の地域別ブロックをやめ、「年齢別選挙区」にするアイデアもあり得ます。例えば「若年区」の名簿には一定の年齢以下しか掲載できず、当選人数も人口分布に応じて割り当てる。
比例部分が「小選挙区のオマケ」としかみられず、無責任な定数削減案の対象になるいま、そうした違った活用法を提案してゆくのは大切です。
『公明』2026年7月号、28頁
にしてもどうして、リーマンショックで景気がどん底だった時期にはふつうに語られた構想を、”好景気” なはずのいま、まるで見ないのか。
制度を改めれば「政治がよくなる」と思えるには、投票する有権者どうしの信頼が必要である。ところが令和に選挙をやると伸びるのは、人間でなく「うおおおIT! うおおおAI!」への期待を煽る、実績ゼロの政党だ。
コロナ禍で最初期のマスクや、いまなおナフサがそうだが、不足する資源の最適配分はAIで解くのにいちばん適した命題だ。しかし、ふだんITとかAIとか言ってる人が、汗をかいてベストな案を導いた話は、まず聞かない。
なぜか。「もう人間を信用できないから」それ以外を持ち上げるニヒリズムが、”AIへの期待” の正体で、言ってることを誰も信じてないからだ。
そんな文化はもちろん、民主主義には向かない。無理に接合すれば、選ばれた政治家(や候補者)が無理ゲーでボコボコにされるのを眺めて愉しむ、古代ローマの剣闘士のようになってしまう。ある種のTVショーと同じである。

ホンモノとは、自分の言うことを信じるがゆえに、まちがえても自ら責任をとる態度のことである。逆にニセモノとは、もともと何も信じてないので、そのときウケることを口真似しては言い逃げする人たちの群れだ。
だいぶ前から、日本の政治は後者になっていたが、もし「なら議席減らせばよくね? 不利になる政党はざまぁじゃね?」な今回の定数削減案が通れば、ニセモノ民主主義の完成となろう。

そこまで行くのか、手前で踏みとどまるのか。
帰趨を決める鍵は、ホンモノをどれだけ民意が望み、支援するかにある。今後もニセモノに「また別のニセモノ」をぶつけて、無限に凌辱ショーを演じるのが政治だと思うなら、ローマがそうして滅んだように、それもひとつの選択だろう。
参考記事:1本目の読売社説がすべてですね。

首相は、公明党が連立与党を離脱する中、政権発足に協力した維新に恩義を感じて、維新の言う通りに実現する必要がある、と考えたと言われる。……圧倒的勢力を誇る自民が、維新の極端な主張に振り回される姿は異常と言うほかない。
2026.6.18
(ヘッダーは、最も有名な剣闘士の映画より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年6月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。







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