
ひと言発信するごとに、ユーザーが「真実!」と叫ぶメディアをご存じだろうか。まるで「宣誓!」と声を上げてから、信条を誓い配置につくプレーヤーのように。
(中 略)
大手のSNSでは、投稿のことを「ポスト」(投函)と呼ぶ。しかしTSでは「トゥルース」だ。面白かった他人の投稿を、自分のフォロワー宛てに転送する行為は「リポスト」だが、TSではこれも「リトゥルース」と呼ぶらしい。
9頁(強調を追加)
…という書き出しで、今回は『Wedge』7月号の連載「あの熱狂の果てに」を始めてみた。文中に “TS” とあるのは、もちろん世界一有名な政治家が作ったあのSNSのことである。
たとえ正しい報道でも、大統領を不機嫌にさせたら “Fake News!” と罵られる時代なことは、前から知っていた。しかし、まさか「うおおお、真実!」なノリで毎日言葉の弾丸を発しながら執務してるとは、ぶっ飛びである。
そんなヤバい実態を教えてくれたのは、哲学者の古田徹也氏が2月に出した『懐疑論』のあとがきだった(p226)。歴史ばかりの連載では飽きられるので、3月号で東浩紀氏の新刊を採り上げたのに続いての、哲学回になる。

といっても、ぼくが書くとなんだかんだで歴史っぽくなるんだけど、そちらは『Wedge』誌で見ていただくとして、盛り込めなかったがいま最も考えるべき論点について、補足しておこう。
哲学的な懐疑論と聞いて今日、多くの人が連想するのはSF映画の『マトリックス』だろう(同書でもp135から、喩えとして出てくる)。要するに、

「いま見えてる世界はぜんぶ仮想現実で、本当に存在するのは脳をコンピュータに繋がれてVRを見ている奴隷の群れかもしれないじゃないっすか。そうじゃないってエビデンス出せます? ムリですよね、はい論破」
画像はこちらのサイトから
みたいな話だ。で、実際にエビデンスはない(=出したところで「それもVRかもしれない」と言われるだけな)ので、この問いにはストレートに反駁しても、出口のない消耗戦になってしまう。
これに対し「正しくはこう考えるべきだ」として、紹介されるスタンリー・カヴェルの批判が面白い。端的に言うと、要はこうした “ためにする懐疑論” のおかしさは、その無責任なフリーライダーぶりにあるという主張だ。

我々が何らかの前提に対して懐疑を向ける主張を行なう際には、……なぜいまここでその前提を疑うのか、少なくとも理解可能な理由がなければならない。
(中 略)
しかし、哲学者が過激な懐疑論を振り回して、「世の中の物すべては偽物かもしれない」とか「すべては夢かもしれない」などと語るときには、あたかも自分がこの責任を免除されているかのように振る舞っている。どんな具体的な状況や文脈とも無関係に、まさに無条件の一般的な主張を自分は行なってよいのだと信じている。
176-7頁(改行を追加)
ぼく流に言い換えると、物事を根底から疑うのはOKだけど、その際には「そうまで疑うことで、なにが得られるんですか?」という問いにも、納得のいく形で答える責任があるということだ。
世界はVRなのかもしれない。が、そう聞いて明日から行動を変える人は、誰もいない。つまりそんな学者は、疑ったところでそのまま続く現実の確かさに依存しつつ、「俺カッケーこと言った!」とイキってるだけだ。
で、(著者の古田さんではなく)ぼくが思うに、そのタダ乗り感はトランプと激しく対立するWokeの、ある種の主張にとても似ている。

生物学的な性別なんて「ないかもしれない」と疑うことは、あっていい。その発想のおかげで、気持ちが救われる人だっているからだ。が、同じ懐疑論を扱う手つきが無責任になってはいけない。
ほんとうに生物学的な性別がないのなら、トイレをジェンダーレスにするだけじゃなく、あらゆるスポーツを男女混合にし、女子大そのものを廃止し、「女性の比率を何%に」な目標も設けてはいけない。それが、自らの主張に責任を負う態度だ。
しかし実際には、「男性・女性」の枠組みは残り続けることを(こっそり)前提としつつ、この人が “逆の性別” に入り込んだっていいっスよね、だって生物学的な性別は実在しないんでしょ? な主張ばかりが、行われてきた。

それはオカシイだろ! とブチ切れた人たちが担いだのが、トランプである。が、彼らもどこがおかしいのかを、筋道立てて考えてはいないので、「うおおお真実!」を振りかざすことしかしない。
要するに、”無責任な懐疑論” が調子に乗り過ぎたので、”粗暴すぎる実在論” に支持が集まり、ボコボコの「殴り返し」が起きてるのが現状なのだ。その潮流はまさにいま、日本にも及びつつある。

そんな時代を、どうすれば治癒できるのか。
そう問うこともまた、”臨床人文主義” の大事な使命だろう。ぼくらの時代はなにかを病んでいるのであり、その自覚なしに「海外ではこうなんです」な輸入代理店を営むだけの人文学では、ヤバい感染症まで持ち込んでしまう。

連載では同書から、まさに臨床としての学問のヒントになる、こんな歴史上の挿話を紹介した。日本がアメリカと同じところまで行く前に、多くの人が現状を “正しく疑う” 一助になれば嬉しい。
2~3世紀(三国志や卑弥呼の時代)に活躍し『ピュロン主義哲学の概要』をまとめた、セクストス・エンペイリコスの言い分が振るっている。医師でもあった彼は、懐疑主義とはあくまで薬、それも「浄化剤」(下剤)にすぎないと記す。
体内の毒素を外に出すために下剤を飲ませると、毒とともに薬もまた排泄される。「これがトゥルースだ!」という思考に凝り固まって苦しんでいる人を、楽にするために処方するのが本来のあり方で、治療がすんだら消え去ってかまわない。
もし「真実なんてなにもない」といった別のトゥルースを強要し始めたら、それは薬の濫用であり、新たな病気なのだ。
『Wedge』2026年7月号、9頁
参考記事:


(ヘッダーは、2017年1月のトランプ就任反対デモ。米国紙より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年6月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。







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