沖縄と皇室の歴史的な関係
沖縄の人々が皇室のことを本土の人たちほど大事にしていないと保守派の人はいう。しかし、そんなことは当然であろう。古代においては、沖縄などの南島を日本領とする認識はあり、南島の人々を朝廷に迎えてもいる。
しかし、そのころの沖縄の人口は、農業をほとんどしていなかったので極めて少なく、沖縄の人口が増えたのは、鎌倉時代あたりになって南九州から移住者がやってきて、農業を定着させてからだ。
このころになると、武士の世の中だから、将軍たちにとって琉球とは何かという話になるし、琉球側にとってもそうだ。
そこで、新著『誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)』では、沖縄と皇室のかかわりについても論じているので、歴代天皇と沖縄について紹介したいと思う。初回は昭和天皇である。
皇太子時代に実現した9時間の沖縄訪問
昭和天皇は沖縄を訪問していないと主張している人が多いが、実は1回だけある。皇太子時代に訪欧した際、9時間だけだが沖縄に寄港し、上陸もされているのだ。
皇太子裕仁親王は1921年(大正10年)3月3日、御召艦「香取」で横浜を出港し、欧州へ向かわれたが、3月6日に中城湾へ入り、与那原から沖縄本島に上陸された。
中城湾に御召艦「香取」「鹿島」が入湾・投錨し、与那原で小艇・伝馬船に乗り換えて、仮桟橋から上陸された。与那原の市街を徒歩で進み、当時は沖縄県営鉄道があったので、特別列車に乗車され、那覇駅まで行かれ、人力車で沖縄県庁を訪れられた。
ここで昼食をとられ、松の木の記念植樹を行われ、首里に向かわれた。首里では、旧琉球国王の尚侯爵邸を訪れられ、沖縄師範学校生徒らの唐手演武をご覧になり、沖縄師範学校で音楽を教えていた作曲家・宮良長包による奉迎歌を小学生が合唱した。
その後、首里城などを視察し、帰艦して、同日夕刻に出港されたのである。

また、船越義珍の指導を受けた師範学校・中学校の生徒らが唐手を披露した。琉球舞踊を披露する案もあったが、時間の都合で取りやめられたとの記録がある。
翌1922年以降、3月6日が「東宮行啓記念日」とされ、毎年、奉祝行事が行われたほか、与那原には上陸地点を示す記念碑が建てられ、あちこちに「行啓記念」の名が付けられた。上陸記念碑は失われたが、2018年に与那原町が「東宮殿下御上陸記念碑」を再建した。
この寄港は、沖縄出身の漢那憲和大佐が御召艦「香取」の艦長だったことから、当初の航路に入っていなかった沖縄寄港を、漢那憲和艦長が供奉長の珍田捨巳らに働きかけて実現したともいわれるが、確かな証拠はない。
また、一部の島民が漢那艦長のほうが立派そうだとの印象を語ったともいうが、都市伝説の域を出ない。
その後、1923年には台湾を訪れられたが、沖縄に立ち寄ることはなかった。
沖縄戦への後悔と軍部への批判
沖縄戦については、台湾防衛のために兵力を移したことが沖縄戦の被害を大きくしたという認識だった。

沖縄から台湾へ転出となった第9師団歩兵第35連隊の兵士 Wikipediaより
戦後、寺崎英成御用掛らが昭和天皇から聞き取った回顧をまとめた『昭和天皇独白録』には、「沖縄は本当は3個師団で守るべき所で、私も心配した」という発言がある。
昭和天皇は、参謀総長の梅津美治郎が当初は2個師団で十分と考えていたが、後に兵力不足に気づき、1個師団を増援しようとした時には、すでに輸送できなくなっていた、と述べられている。
沖縄の第32軍には当初、第9師団・第24師団・第62師団などが配置されていたが、大本営は台湾防衛を重視して第9師団を台湾に移した。
昭和天皇は、海軍は航空兵力の援護がないまま戦艦「大和」を出撃させ、陸軍は地上での決戦時期を先延ばしにし、ちぐはぐだったと指摘された。

爆沈した戦艦「大和」Wikipediaより
また、マッカーサー元帥に沖縄をしばらく統治してほしいというようなことをいわれたようだが、これは、蒋介石が沖縄に対する領土的な要求を全面否定していなかったなかでは、米軍による単独統治が好ましかったということだ。
実現しなかった戦後の沖縄行幸
本土復帰後は、1987年4月29日の記者会見で、沖縄戦の犠牲者を慰霊し、沖縄県民の苦労をねぎらいたいと述べられるなど、早期の訪問を希望された。
しかし、皇太子だった上皇陛下が1975年に初めて沖縄を訪問された際、ひめゆりの塔で火炎瓶が投げられる事件が起きたこともあり、宮内庁も慎重になった。
1987年の第42回国民体育大会、いわゆる「海邦国体」の際には訪問準備が進められたが、同年9月に昭和天皇が吐血され、手術・療養に入られたため、沖縄行幸は中止された。
昭和天皇はその後も、健康が回復すれば早い機会に沖縄を訪れたいとの意向を示されたが、1989年1月に崩御された。
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