日本病のカルテ(6) ボトルネックは個人を会社に囲い込む「労使共同体」

「挑戦しない国に未来はない」というのは、高市首相のお得意の言葉である。施政方針演説や骨太の方針などの演説には必ず出てくるが、この1年近くの間に、彼女の挑戦で何か結果が出ただろうか。物価が上がって円が下がったぐらいだろう。

この30年以上、日本の政治は「積極財政」は何度もやった。金融緩和もやったが、何も結果が出なかった。日本経済が停滞している原因は、それが一度も挑戦しなかった問題にある。それは雇用を流動化する雇用改革である。

日本には「解雇ルール」が存在しない

英国病の最大の原因は、職能集団ごとに縦割りになった労働組合だった。一つの企業の中に多くの産業別組合があり、その一つがストライキをやると工場がすべて止まってしまう。1970年代には鉄道や警察からゴミ収集までストライキを繰り返し、街はゴミの山になった。

日本でも終戦直後には、激しい生産管理闘争がおこなわれた。1940年代の読売争議、東芝争議などでは経営側が一部譲歩したが、占領政策の転換で50年代には「総資本」が「総労働」を弾圧する方針に転換し、その頂点ともいえる1960年の三井三池争議で労働側が敗北し、労使対決の時期は終わった。

解雇がこうした労使紛争を引き起こして高くつくことを学んだ経営者は、労使協調的な「第二組合」をつくって階級闘争的な産別(共産党系)の勢力をそぐ方針をとった。こうした御用組合のナショナルセンターが、総評(現在の連合)である。

さらに右寄りの方針をとる同盟とともに、こうした労使協調路線によって長期雇用(いわゆる終身雇用)の慣行が確立した。このように系列の中で過剰雇用を解決するしくみが、「日本的経営」の優位性の大きな源泉だった。終身雇用・年功序列・企業別組合が日本的雇用の「三種の神器」と呼ばれる。

このためよくも悪くも会社への帰属意識が強く、1980年代以降はほとんど解雇もストライキもなくなった。高度成長期には 経済の規模が拡大したので、雇用の変化には配置転換で対応するしくみが確立したが、70年代の石油危機が大きな転機となった。

激しいインフレに対して、経営側は労組に賃上げ抑制への協力を求める代わりに雇用の維持を約束し、出向・転籍によって雇用調整を行なうシステムができた。そのような努力をしないで整理解雇を行なうことは認めないという判例も、1979年に整理解雇の4要件として確立した。今も実定法ではほとんど規制がないため、この判例が使われている。

これについて「日本は解雇規制がきびしすぎる」という話がよくあるが、これは逆である。日本の実定法で解雇規制といえるものは、労働契約法16条(解雇権濫用の禁止)の精神論しかない。具体的にどういう条件なら解雇できるのかという解雇ルールが存在しないのだ

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