「差別のない本屋」は誰が決める? 「ヘイト本」陳列に抗議する小学校教員の視野狭窄

「差別のない本屋に通いたい」――。一見すれば、反対する理由のない言葉である。

2026年4月に『差別のない本屋に通いたい。 本好き教師の冒険の記録』を出版した小学校教員の仲川啓介氏は、書店に「差別を扇動する『ヘイト本』」が平積みされることを問題視し、書店から差別をなくすために何ができるかを訴えてきた。同書も「差別を扇動する『ヘイト本』が、本屋に平積みになるのはなぜなのか」という問題意識を前面に掲げている。

(著者に会いたい)『差別のない本屋に通いたい。 本好き教師の冒険の記録』 仲川啓介さん:朝日新聞
■声をあげて旗振り続ける 小学校教諭・仲川啓介さん 「憎悪や偏見をあおる本を平積みにするのはやめた方がいいのでは……」 足しげく通っていた東京・吉祥寺の書店で、震える声で店員に話しかけた。「~~人は…

しかし、その活動をめぐって「自分が気に入らない本を書店から排除しようとしているのではないか」「自分の本だけは排除されないと思っているのか」といったまっとうな批判が広がっている。

問題は、差別に反対することではない。誰が何を「ヘイト本」と認定し、その判断を理由に書店の棚を変えさせるのかという点にある。

「撤去」ではないが、書店への働きかけは事実

まず事実関係は正確にしておく必要がある。

仲川氏が代表を務めた「全国の書店から差別をなくす会」の運動は、特定の書籍の発禁や回収を要求するものではなかった。大手書店に対して、人種差別を扇動すると同会が考える「ヘイト本」を「平積みや面陳で推さないでください」と求める署名活動だった。2022年には対象を全国の大手書店19社に広げ、署名と公開質問状を提出している。

したがって、これをそのまま「焚書」と呼ぶのは正確ではない。

しかし、だから問題がないとも言えない。

運動側はその後、賛同者に対して近隣の書店へ行き、「ヘイト本を平積みなどにしないよう説得」することまで呼びかけている。つまり、単なる批評や不買運動ではなく、書店の陳列判断を外部から変えようとする運動だったことは、同会自身の報告から明らかである。

ここに危うさがある。

JGalione/iStock

誰が「ヘイト本」を決めるのか

差別的な文章が批判されるのは当然である。日本のヘイトスピーチ解消法も、本邦外出身者に対する不当な差別的言動は許されないとの理念を示している。

だが、「ヘイト本」という言葉は、それだけで個々の書籍について客観的な判定を与えてくれるものではない。

移民政策、外国人犯罪、歴史認識、宗教、ジェンダー、原発など、政治的・社会的な争点を扱う本では、ある人にとっての「差別的主張」が、別の人にとっては政策批判や事実認識である場合もある。

そこで「これはヘイトだから目立つ場所に置くな」という運動が始まれば、次に問題になるのは必ず、「ヘイトかどうかを誰が決めるのか」である。

実際、署名を受けた有隣堂は「世の中には様々な考えがあり、書店は人々に多様性を提供する役割を担う」とし、法令に反しない限り特定の書籍を排除せず、購入するかどうかは読者自身が判断するという趣旨の回答をしている。

書店とは本来、気に入った意見だけを確認する場所ではない。自分が不愉快だと思う本、自分とは正反対の思想の本も存在するからこそ、本屋なのである。

他人に向けた物差しを自分にも使えるか

さらに批判を呼んでいるのが、仲川氏自身の活動との整合性である。

しかし興味深いのは、ここでも「情報が社会に与える影響」という、仲川氏自身が他人の本に向けてきた物差しが問題になることだ。

福島県の甲状腺検査評価部会は2025年、先行検査から本格検査5回目までについて「甲状腺がんと放射線被ばくの間の関連があるとは認められなかった」と評価している。国連科学委員会(UNSCEAR)も、福島で多数の甲状腺がんが発見されたことについて、高感度のスクリーニングによる影響が大きく、放射線被ばくによるものとは考えにくいとの評価を示している。

だからこそ、自分と異なる主張について「社会に害を与える」と陳列方法まで問題にするのであれば、自分が共感する側の情報についても、同じ厳しさで社会的影響と科学的根拠を検証する必要がある。

そうでなければ、「差別をなくす」という原則ではなく、単に自分が正しいと思う言論は守り、間違っていると思う言論は棚の奥へ追いやるという政治的な選別になりかねない。

「差別のない本屋」が「異論のない本屋」になってはいけない

仲川氏にはもちろん、自分が差別的だと思う本を批判する自由がある。不買を呼びかける自由も、署名を集める自由もある。

同じように、批判された本の著者には反論する自由があり、書店には何を仕入れ、どこに並べるかを自ら判断する自由があり、読者にはその本を手に取る自由がある。

重要なのは、この対称性である。

「差別反対」という目的が正しければ、どんな手段でも正当化されるわけではない。

何より皮肉なのは、『差別のない本屋に通いたい。』という本そのものが、書店という自由な言論空間によって読者の前に届けられていることだ。

もし別の政治的立場の人々が大勢で署名を集め、「この本は思想的に有害だから平積みにするな」と書店を説得して回ったら、仲川氏はそれを「市民による健全な働きかけ」と歓迎するだろうか。

そこで答えが変わるのなら、問題は「ヘイト」ではない。

自分が本を選別する側にいる間だけ、言論の選別を正当化していることになる。

差別のない本屋は必要だ。しかし、それ以上に守らなければならないのは、誰かが「正しい本」と「間違った本」を決め、異論を棚から見えなくしてしまわない本屋ではないだろうか。

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