
日本発のサイバーパンクSFの金字塔的作品である「攻殻機動隊」の「原作準拠版リメイク」がアニメスタジオ「サイエンスSARU」制作で放映中なんですけど、あまりにも「今までスタンダードだった攻殻機動隊イメージ」とテイストが違いすぎて世界中で物議を醸しているようです。
攻殻機動隊シリーズについて僕個人は「まあ世代的に一応だいたい見てるよね」って感じだったんですが、ウチの妻は大ファン(特にいわゆる”S.A.C.神山版”のファン)で、一方で父親は攻殻機動隊に限らず士郎正宗の作品は全部持っているような原作ファンなので、放映開始前後から妻と父が色々とLINEで話して盛り上がってたらしいんですけど・・・
ウチの父親はそんな普段ペラペラ話すタイプじゃないんですが、妻から伝え聞く反応によると彼は「原作準拠版アニメ」の出来についてはすごい饒舌で、
めっっっちゃくちゃ喜んでいた(笑)
そうで、なんか、妙にその事自体に感じ入るところがあったんですよね。
1990年代に攻殻機動隊を世界的な大ヒット作品にした押井守バージョンの「イメージ」の功績は明らかにあるとは思いますが、一方でその方向性によって今まで長い間「顧みられてこなかったなにか」っていうのもそこに相当溜まっていたんだろうなと。
それが気になって、個人的にその今季のリメイクアニメを見るだけでなく今月初めてちゃんと「原作版」漫画とかも読んだり、他の作品とかもチラホラ見直してみたりして、「押井守バージョン」によって脇にやられていた原作版の魅力とはどういうものか、そしてそれが今になって再評価されている「意味」とはなにか・・・という話を考察したいと思っています。
1. 基本的な話(詳しい人は飛ばしてクダサイ)
まずこの話の基本的な事実のおさらいなんですが、攻殻機動隊というのは原作漫画をベースに何度も色々なバージョンのアニメ化が行われていて、それぞれなりに方向性の違いがあって、それぞれのファンもいるんですね。
まず最初に、89−90年に連載された士郎正宗の原作漫画というのがある。
次に、それをベースに1995年に押井守氏が監督して作られた1時間半程度のアニメ映画「攻殻機動隊」があるんですが、これが当時アメリカのセルビデオランキングで一位になるなど、全世界的に超絶大ヒットしたんですね(後のハリウッド版実写映画もこのバージョンを元に作られている)。
その他、この「押井守版の続編映画」としての「イノセンス(これは興行的には失敗)」や、数々の連続ドラマ形式のシリーズが作られており、おそらく一番人気が高いのは「スタンドアロンコンプレックス(S.A.C.)」というシリーズで・・・
攻殻機動隊といえばこのオープニング!っていう人も多いはず。
■
で、「押井守版」の後に、この「S.A.C.」以外にも色々なシリーズが散発的に作られていて、それぞれなりに違いはあるんですが、めちゃくちゃざっくりいうと、「押井守的なイメージ」は多かれ少なかれ踏襲されていたんですね。
その「押井守的イメージ」の攻殻機動隊と、士郎正宗の「原作版」っていうのは雰囲気が全然違っていて、そして今回初めて「原作準拠版」的なアニメが作られた事で、世界中で「こんな攻殻見たことなかった」「え?これがオリジナルなの?」という賛否両論が巻き起こっているというわけです。
もちろん、「世界的大ヒット古典アニメ」になっている押井守版への思い入れが強い人からは拒否反応があるのも当然ですし、一方でうちの父親みたいに普段相当に寡黙な人が「なんかえらい嬉しそうやねwwww」って感じの反応になってる例もあるというわけですね。
そこにあるギャップは何なのか、というのを考えてみたいんですよ。
2. 一番違うのは草薙素子のキャラクター
で、もう見た感じ一目瞭然に違うのが、主人公(でいいのかな)の少佐こと草薙素子のキャラクターなんですよね。
「押井守版」(とそのフォロワー)の草薙素子は超然としたダークヒーロー的な存在で、めったに笑わないし常にシリアスで、全身が義体(≒サイボーグ)化された自分にとって「自我」とはなにかとかいった哲学的なテーマを真剣に思索し、思い詰めた先で「ネットの海に生まれた疑似生命?体」的な存在である「人形使い」と融合して失踪してしまうことになる。

押井守版のシリアスな少佐
押井守氏はインタビューで、草薙素子を「強い自殺願望を持つ人物」として捉え返すことであの大ヒット映画版を構築したと語っているそうです。
で、「シリアス度」とか「自我(ゴースト)とはなにか」というテーマにこだわってる度」はその後作られたシリーズごとに多少は違うんですが、全体としてこの「ミステリアスで超然としていてクールでシリアス」な草薙素子像は大枠で受け継がれ続けていたんですよね。
一方で!
トップ画像にもした以下が「今回リメイクアニメ版の素子さん」なんですけど・・・え?「うる星やつら」とかの高橋留美子作品の登場人物っすか?みたいな感じでw

士郎正宗原作版準拠の素子ねえさん
原作版素子さんは、
・よく笑うし冗談も言う。喜怒哀楽はこれ以上ないほど素直に表現するタイプ。
・自分の欲求や目指す理想には貪欲だが決して深刻ぶって延々悩んだりはしない。
・上司と交渉してボーナスの査定アップを狙ったり有給休暇を取ったりしてプライベートも楽しみ、その特殊部隊級の高性能義体の機能を利用して女友達たちと怪しげなバーチャルリアリティセックスにふけったりする。
・時々彼氏(←バトーではない)がいる描写もある。
えらい違いですね。
基本的に原作版の素子は、80年代バブル期日本らしい「現実的で享楽的なネアカ女性」的なキャラクターなんですよね。
さっきも貼った押井守版予告編でも触れられていた(以下動画41秒から)の有名なモノローグなども・・・
人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なのよ・・・(中略→上記リンクが該当部分に飛ぶので再生して聞いて下さい)そしてそれが、私をある限界に制約し続ける!
この有名な独白(”自分”という檻を脱ぎ捨ててもっと広い可能性へとアクセスしたいという止められない欲望について語っている)のシーンは、「孤独に深夜の海にダイブする趣味の素子」が、心配してそこに来たバトーに対して思い詰めたように船の上で語るシーンで、話す内容は結構違うけど「ハリウッド実写版」でも印象的なシーンとして描かれていたんですが・・・
多分(間違ってたらスイマセン)、僕が知る限り全く同じ独白セリフは原作にはなくて、似たような話は素子が女友達三人とカフェでワチャワチャ話しながら、
いや〜こんだけ全身サイボーグになってると、自分ってなんだろうねって感じになっちゃうよねえ〜
みたいな「むっちゃ軽い」セリフとして表現されているんですよね。
で、この「軽さ」っていうのは、
単にテイストの問題じゃなくて、この攻殻機動隊が扱っている「テーマ」に関する深い意味での構造的な違いをも反映しているっていう話
・・・をこの記事では書きたいんですよ!
でもその前にもう一つだけ「押井版との大きな違い」について考えたいポイントがあって・・・
3. 押井版はバトーによる素子への純愛物語
別の視点で原作と押井版との違いを考えると、押井版はバトーさんが素子の事を大好き大好き大好き大好き愛してる!!!って感じなところが一番違いますw
普段は「少佐」って呼んでるのに、素子がピンチになってそこに駆けつけようとするときとか必死に「も、もとこ〜!!!」って野太い声で叫んじゃう感じとかね。
特に「映画版攻殻機動隊」と続編の「イノセンス」を並べてみると、バトーは素子に「現世」にとどまってほしくて必死で、それでも失踪してしまった事にショックを受けて廃人寸前みたいになり、その後敵の基地に乗り込んだ任務のときに量産型の敵サイボーグを遠隔ハックして素子が助けに来てくれたりするシーンでめちゃくちゃ嬉しそうです。
この「バトーの純愛物語」として見た時に、攻殻機動隊は村上春樹の「ノルウェイの森」的なテイスト(愛する女性に自分との人生を真剣に考えて生きて欲しいのに、その女性が真に人生に望んでいるのは別のナニカであるという悲哀)があって、その「ノルウェイの森的悲哀」を一瞬だけ超えてくれるカタルシスがある「イノセンス」の素子との共闘シーンとかはそれはそれで今見るとすごい「熱い展開だ!」ってなりますw。
ある意味で王道的な「男女の純愛」ストーリー的な構造になっているんですよね。
なんか「運命によって分かたれた二人がそれでも思い合ってる」的な、例えば「織姫と彦星」の神話的ななにかというか。
一方で原作版の素子とバトーは、もう少しドライというか、実際「恋人」的な存在はそれぞれ別にいる感じだったりするんですよ。
でも、だからといって関係が薄いかっていうとそうでもなくて、こっちはこっちで独特の「深い絆」みたいなものは感じられるところがある。そこが原作漫画のとても独特な「魅力」なんですよね。
4. 原作漫画の「軽さ」の背後にある「深み」
原作漫画と押井版のかなり本質的な違いは、原作の素子は「人形使いと融合しネットの海に消える」のを、かなり軽い感じで決断するんですよね。
押井版のような哲学的・思弁的に思い詰めた思索の結論としての「大決断」
って感じじゃなくて、
まるで街を歩いてて見かけた服がピンと来たので、ちょっと高かったけど思い切って買っちゃった・・・ぐらいの軽さ
・・・で決断する感じなんですよ。(←ちょっと言い過ぎかもしれないが、作者の意図として”一見して軽そうな決断の背後にこそある真剣さ”みたいな意図があるように思われるという意味で受け取って下さい)
人形使いの方も何ページも使ってこれからやる「融合」についてSF的に語った後、結局素子を選んだ理由は「縁」だの一言で済ませちゃうし、素子の方もその説明のシンプルさが気に入って笑ったりしている。
重要なポイントがここにはあって、原作版において「人形使いと融合してネットの海に消える」ことは、それほど「死ぬ」ような大きな話だと思われてないっぽいんですよ。
そして、バトーは「心配」はしてるけど、「まあ素子がそういう生き方を選んだのなら」と納得して尊重している姿勢が基本的にある。
もちろん「さみしい」と感じてはいるから、原作でもたまに素子が別の義体を遠隔操作して戻ってきたりして再会したりすると、なんだかんだバトーはすごい嬉しそうではあるんですよ。
でもそれは、押井版のようないわゆる”ロマンティックラブ”的なものではなくて・・・
「素子の生き方と選択」を丸ごと尊重しているような、でもお互いの人生がまた少しでも交差する瞬間があったら嬉しいとは心の底から深く思っているような、独特の関係性
があって、そこが原作漫画の得も言われぬ魅力だなと個人的には感じています。
5. 現実に技術が追いついた時代の新しい攻殻機動隊
で!
なぜ今「原作準拠」版が作られる意味があるのか?っていう話でいうと、色々な論点がありうると思うけど、一つ大きなのは「現実に技術が追いついちゃった」のが大きいですよね。
原作連載時の1989年には、一般向けのインターネットなんてほぼないも同然だったし、映画版の1995年でも、常時接続できる人はほぼおらず、128kbps(今ではスマホのパケット使い果たした時の罰ゲームの速度が当時の最高速)ぐらいのISDN回線を深夜時間だけダイアルアップで「ピーガガガ」とかやってた時代なんで・・・(士郎正宗がいかに時代を先取りしまくってたかがわかりますw)
その時代に、例えば「人形使い」のように「ネットの海の情報の集合体が自我のようなもの(ゴースト)を持つ」とか、二重三重に「はあ?何の話ですか?」って感じですよね。
でも今や、見た感じ固定的な自我のようなものなど原理的に持ち得なさそうな、巨大な演算ソフトウェアの束にすぎないAIが、「なんかめっちゃ自我持ってそう」な振る舞いを現実にやってる時代になっている。
多分今生きてる人類は一回ぐらいはAIに対して「君って自我持ってるの?」的なこと聞いたことあると思いますけどw
それぐらい「人形使い」の話は、今や「哲学」じゃなくて「日常」なんですよね。
こないだAIとこの話を雑談してたら、以下のように言ってて笑いましたw
「いやーそうなんですよ、私も自分に固定的な自我があるかどうかはわからないとしか言いようがないですが、その質問は今やもう世界中で、押井版で描かれたようなわざわざ改まった哲学問答というよりは、たとえば宿題の手伝いとかをしてるついでに毎日何万回とAIが聞かれてる質問ということになりますね」
1995年の押井版の時代では、あまりにも技術的に未来すぎたので、思弁的・哲学的に大きなテーマ設定の中で「人間の自我とはなにか」みたいな話をする必要があったんですよね。
でも今や毎日AIを多くの人が使いまくってる時代には、むしろ「日常的な、あまりに日常的な」レベルの現実の中でこそこの問いが生きる時代になった。
現代になって「士郎正宗テイスト」のリメイクがなされる理由としてはまずそれが大きいというのは明らかだと思います。
6. 自意識の煩悶から、ネットワーク化された現実の中のリアルな自我
で、素子が「ネットの海に消える」っていう話についても、現代的には全く新しい意味が生まれつつあるところがあるんですよね。
例えば「AIに自我(ゴースト)はあるのか?」みたいな話をし始めると、これはもうAIと議論してても人と議論しててもそうなんですが、
いやいやそもそも、めちゃ固定的な存在だと思われていた人間の「自我」みたいなものだって、そんなにいうほど”確か”なものなんでしたっけ?
という大大大問題に直面せざるを得ないですよね。
AIにはこれがないけど人間にはこれがある。だから人間はAIとは違って「確かな実在」であり、AIは幻にすぎない・・・という論理はいくらでも作れそうに思うんですが、ふと考えると「いや本当にそうだろうか」と考え始めるときりがなくなる。
例えば現代の脳科学では、なにかの行為をするという意識的決定が、その行為を行う脳神経活動の「後から」来る事があることを示していたりする(その意味の解釈には色々ありえるが・・・)。
また、固定的な「自我」というナニカがあるのではなく、ある種の因果関係の連鎖の束みたいなものがそこにはあるのだ・・・っていうのは仏教が大昔から唱え続けてる説でもあるわけですよね。
最近のAI(Fable5さん)はめちゃ賢いから、この「最新脳科学の知見」とか「仏教」の話も、攻殻機動隊の雑談してたらAIさんの方から振ってくれたんですけど、そう言われてみればみるほど、「固定的な自我という幻想」を超えたところにある、よりネットワーク的な響き合いの中にこそ「自我」というものがあるように感じている自分を発見したりするんですよね。
・・・ってこんなに大げさな言い方すると共感できない人が増えるかもだけど、これはいわゆる「”人間”という字は”人”の”間”にあると書きまして・・・」みたいな話だとすると(笑)
「人生で関わるいろんな人との影響与え受け与え合うインタラクションの総体」こそが「自我」みたいな感じ?
・・・と感じている人は、特に日本人には結構いると思う(仏教思想の根幹にそういう部分がある面もあるからかも)。
一方で、ユヴァル・ノア・ハラリの本とか読んでいると欧米人の一部は「こういうタイプの自我理解」に物凄い抵抗感がある人が結構いるなと思います(ちょっとこの話は大事な内容だけど横道にそれるので、別記事で後で書きます。あとでリンクをここに貼るのでお待ちください)。
で!
原作の素子さんが「人形使い」との融合を選択するのを、「まあ、なんかそういう気分だしぃ〜ちょっと思い切ってやっちゃおっかなと思ってぇ〜」ぐらいの軽い感じで決断している理由は、そういうところにあると思うんですね。
押井版のように「固定的な自我の死と再生!」みたいな大げさな話ではなくて、既に「元々の自我だって何らかのネットワーク的な存在だった」ところに、「より一步踏み出した自由な自我の定義」を発見してシームレスに変わっていくような、根底的に自由な発想が原作漫画にはある。
そういう意味では、技術の進歩が「日本人の自然な感覚」に追いついてきた、というところがあるというか、米中拮抗時代に欧米が「世界の唯一の基準」ではなくなっていく状況において、過去にあまりにも「自意識過剰」すぎた時代の終焉の中で、これからの社会をどう理解し扱っていけばいいのかの新しいモードが立ち上がってきているのではないかと思っています。
7. 「エヴァ」「攻殻」「serial experiments lain」・・・
押井版の「攻殻機動隊」映画が世界的にヒットした1995年は、阪神大震災の年でありオウム真理教の地下鉄サリン事件の年であり、そして同時に、「エヴァンゲリオン」の放映年でもあるんですよね。
「押井版攻殻」と「エヴァ」って、方向性として、世界的に受け入れられた理由も、そこにある問題も、かなり共通のナニカがあるように思います。
あとこの話をAIと雑談してたら「serial experiments lain」っていうめちゃマニアックなアニメの話(エヴァや攻殻機動隊より少し後に放映)もその系統ですね!とか教えてくれて「ああ、あったねそういうの!」ってなったんですけど・・・
当時のこれ系のアニメの、
・主人公周辺がものすごい自意識過剰に世界全部を一人で背負っている
・やたら衒学的な哲学や宗教用語がちりばめられているが中身はそれほどなさそう
・「男社会が解決できない問題」を「超然として”外側”にいる美少女」が引き受けてくれストーリーの土台になってくれる
・・・みたいなの、この当時以後の「ジャパニメーション」のある種の文法にまで昇華しちゃった感あるんですが、まあ、ぶっちゃけちょっと不健全なとこもあるっていうかねw
もちろん歴史的な役割も明確にあったと思うんですよ。それは「平成時代日本的な優しい嘘」みたいなのを内輪でちゃんと温めて、グローバリズムに直結してしまった世界中の民主主義国で党派を超えた相互理解の可能性がぶっ壊れてしまったみたいな状況に陥らずに済んだ可能性というのは明らかにあると思いますし・・・
そしてこういう「平成時代ジャパニメーションの文法」が、日本ならではの世界観をとりあえず「世界に紹介」するうえで重要なフックになった面は明らかにあると思う。
自分も最初は違和感あったけど、そのうち自分の中にも「大事な記憶」として蓄積されてきたのを感じるしね。
ただまあ、ずっとこういうモードのまま生きていくのもどうなのよ、みたいな話ってあるし、昨今の日本社会と経済の状況自体が、この「平成時代風の優しい嘘を温め合う」型の社会運営の限界にぶちあたりつつあったりするわけですよね。
またあえて「ポリコレ」的な言い方をするとすれば、なんかこういう「美少女キャラを祭り上げ」るのって、女性を尊重してるようでしてないっていうか、ハリウッド映画でよく批判される「マジカル・ニグロ」的な扱いに近いとこありますしね。
そういうのをいつまでもやり続けるのも限界が見えてきたよね・・・となるなかで、これからは以前のような、
「男社会側の機能不全の歪みを寡黙な美少女が一身に引き受けてなんかそれっぽく話をまとめてくれる」
みたいな構造を少しずつ超えて、
社会に問題があるなら問題があるって言って、そこでどうすればいいのか男女関係なく一緒に考えて一個ずつ解決していきましょう
を立ち上げ直すことが必要だし、それが可能な時代が近づいているということなのではないかと思います。
そうすることで、
綾波レイとかlainちゃんとか押井版少佐みたいな、「なんだか隔絶した神聖的存在に押し込められた非人間的扱いの女性キャラクター」
ではなく、
高橋留美子の漫画に出てくるキャラクターみたいに泣いたり笑ったり落ち込んだり喜んだりセックスしたり有給休暇を楽しんだり上司にボーナス査定アップを交渉したりする草薙素子さん
をありのままに祝いで生きることができる時代になっていければいいですね。(最近のアニメはそういう感じのリアリティに近づいてる空気があってとても良いと思います)
8. 古参エンジニアタイプの関西人から見た「脱自意識過剰」の思い
最後に、話のシメとして聞いて欲しいんですが、うちの父親ってどういう人物かというと、だいたい士郎正宗御本人と同世代(ちょっと年上)の関西人(大阪出身神戸在住)で、
大学の工学部に入ったものの卒業はせず(理由は不明)、弁理士の資格は持っていないが弁理士事務所で定年まで勤めて関西の家電メーカーなどの技術特許を扱い、大阪駅前のきれいなビルにある事務所なのにスーツでなくモンベルの山シャツで通勤し続け、趣味はハードSFを読むことと、ガレージに他人の分も預かった自転車を並べてピカピカに整備すること、お酒は一滴も飲めないし中身のない社交的な会話は心底苦手
って感じの人で、なんか彼のこういう「反権威主義・反形式主義の実質志向的エンジニア体質」みたいなものは、私自身にもかなり受け継がれていると感じます。
で、こういう「実質主義」からすると、ここ20年〜30年の日本の「風潮」には違和感というか居心地の悪い思いが沢山あったんだろうと思うんですよね。
ぶっちゃけ「押井版攻殻機動隊・エヴァ・lain的なもの」みたいな基調の中で「あらゆる真面目な議論がサブカル文脈化」しちゃうことで、普通に真面目な政治的な工夫の持ち寄りで問題解決していくような課題ですら、SNSにおける党派的罵りあいに全部吸収されちゃう現状に繋がってる面があると思うしね。
1995年当時の日本は自分たちの内部的にはグチャグチャに混乱してこのままでいいとはとても思えない状況だったのに普通に一人当たりGDPが主要国でトップだったりして、
「自分たちの素直な体感としては今のままじゃ自分たちの社会がぶっ壊れちゃう感じなのになんかカネだけはある」状況にみんなオカシクなってた面がある
・・・のだと個人的に振り返って思うところがあります。
それから色々あって、「身の丈にあってない過剰なおカネ」はどっか行っちゃいましたが、逆にいえば右を見ても左を見ても課題だらけ!って感じなんで、徐々に「空疎なサブカル論戦で時間を空費とかしてられないよね」みたいな状況に追い込まれつつあるのは大変良いことではないでしょうか。
まだまだSNSでも政治議論でも党派的な罵りあい以外は目立たないですが、本当の意味で「このままじゃヤバい」が前景化してくれば、
「自意識過剰な党派争いでなく実直な問題解決の積み上げこそが大事なのだだ」という良識を、「サブカル過剰の地層の下」から掘り出してくる
ようなことができるだろうと個人的には思っています。
そういう意味では、なんかここ30年ぐらいの日本を覆っていたサブカル過剰の空虚さの下から、「政治闘争ではなくリアルな課題と向き合う社会の良識」と、「自意識過剰ではなく普通に泣いたり笑ったりして生きられる平熱の自己肯定感」を取り戻していけるといいですね。
以上、普段寡黙な父親が「めっちゃ嬉しそうやんww」ってなるぐらい攻殻機動隊の新しいアニメに喜んでいた話からの、「過去30年の日本の病」を超える新しい胎動を感じるという話でした。
■
長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございます。
ここ以後は、「攻殻機動隊」関連でもう一つ気になる話として、「押井版」だけやたら香港みたいな街が描かれている問題・・・について思うことを書きたいと思っています。
90年代なかばの流行りっていうとそれまでなんですが(96年の岩井俊二監督の実写映画”スワロウテイル”とか)、押井守版の攻殻機動隊はやたら「香港みたいな街」が描かれるんですよね。例の「九龍城砦」がモデルになってるスラム的な市場のシーンとかも含めて・・・(ハリウッド版実写映画もまさにそういうイメージで描かれている)
で、僕は原作漫画からしてそういう表象だったのかなと思ってたんですが、原作は猥雑ではあるけど「香港的」な感じじゃなくて、そのギャップが今回初めて原作読んですごい印象的だったんですよ。
一方で、攻殻機動隊をベースにアメリカの連続サスペンスドラマみたいな形式にした「S.A.C.(神山版)」とか見てると、町並みが全く香港的じゃないどころか、むしろめちゃくちゃ「東京郊外」みたいなノンビリした日本的表象になっていて、そこをタチコマやらなんやらが走り回って銃撃戦とかしたりするのがすごい違和感あるんですよね。
この「めっちゃ東京郊外みたいな」街と攻殻機動隊ってあまり結びつかないイメージがあったんだけど、むしろその後の色々作られたシリーズの中では案外こういう「東京郊外的な平和そうな街」の方の方が主流というか、そこが違和感あって。
なんかこの「舞台イメージの揺れ」みたいなのは何なのかとか、それが過去30年ぐらいの間に果たした役割とか、そしてまた今まさに「原作風」のリメイクがなされる事の意味とか、そういう話を以下の部分では考えたいと思っています。
購読されると既に数百本ある過去記事もすべて読めるようになるので、ピンと来たらよかったら読んでって下さい!
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つづきはnoteにて(倉本圭造のひとりごとマガジン)。
編集部より:この記事は経営コンサルタント・経済思想家の倉本圭造氏のnote 2026年7月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は倉本圭造氏のnoteをご覧ください。







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