
金子大作氏という、ロシア軍に志願してウクライナで戦う日本人の従軍記が刊行され、話題を呼んでいる。彼の選択を肯定するかは措いて、その一節にはこの間、メディアが報じることを最も忌避した真実が記されている。
映画の主人公のように強い者が必ず生き残る、なんてことは絶対にない。死はすぐそばに存在し、どれだけ技術があっても避けられない。結果論として、生き残った奴が強いとしか言いようがない。
現代ビジネス、2026.8.11
(強調を追加)
戦場とはニヒリズムが剥き出しになる場所で、実は「強いから勝ち残れる」とは限らない。まして「正しい側が勝つ」なんてことは決まっていない。リアルな戦争体験者が存命だった時代には、自ずとそう学ぶ機会があった。

2022年に始まったウクライナ戦争は、その記憶が擦り切れた後に来た最初の戦争だった。なのでご存じのとおり、最初は「うおおお正しい側が悪い側を池乃めだかみたくボコボコ!」と叫び、その後も「うおおおお潮目ッ!」を連呼する、トリガーハッピーな解説者が湧いてきた。
が、いまや問うべきなのは、そうしたセンモンカのポンコツぶりそれ自体では、ない。

うおおおな人たちも、初めは叫ぶ中身を信じていたはずだが、脳があるなら「おかしいぞ?」と気づく段階を越えてもなお、うおおおおを続けている。つまりそこには初心をもはや失った、ニヒリズムへの変質がある。
気持ちよくなるために酒を飲み出した人が、これ以上は「吐くだけだ」とわかっても止めれないなら、依存が重症化しているのは自明だろう。騙されていたと知ったのに、ある種の接客業に貢いでしまう状態も同じだ。
喩え話に留まらず、「その政治家、あなたを裏切りましたよね?」という事態が判明しても、支持をやめれない有権者は多い。前に高市依存症についても書いたとおり、国を問わずニヒリズムはポピュリズムの培養土なのだ。

よく知られるように、ウソでも「騙せば儲かる」ことを当て込む発し手と、あえて騙されたことに「気づかない」フリで日常をやり過ごす受け手がカップリングするとき、ニヒリズムは最重度の依存症と同じ状態を露呈する。
ウクライナ戦争で『西洋の敗北』を早期に予言したエマニュエル・トッドは、そもそも戦争の前から、西側がそうした自己欺瞞に憑かれていたことを指摘してきた。彼の慧眼は戦局の当てっこよりも、その点にある。
戦争の最初期、ロシアのGDPは韓国と同規模なので、西側全体を敵に回して「勝てるはずがない」とよく言われた。対して購買力平価で計算すればBRICsが優位だとする議論もあったが、人口学者はまた別の本質を衝く。

アメリカは、先進国で唯一、平均余命が全体的に低下している国である。……さらに驚くべきなのは、この死亡率の上昇が、世界で最も高額な医療費を伴っていることである。2020年時点におけるGDPに占める医療費の割合は、アメリカは18.8%で、フランスの12.2%、ドイツの12.8%、スウェーデンの11.3%、イギリスの11.9%を上回っていた。
(中 略)
さらに悪いことがあり、ここで「ニヒリズム」の概念の妥当性が完全に明らかになる。アンヌ・ケースとアンガス・ディートンは、アメリカの死亡率が上昇した一方で、一部の医療費が人々の破壊に使われていたと指摘している。私がここで言及しているのは、オピオイド・スキャンダルである。
『西洋の敗北』267-8頁
(算用数字に改変)
濫用が死を招く薬物でも、売ればその分GDPは増える。そうして水膨れさせた経済指標を「信じるフリ」をするかぎりで、いまも世界の中心だという大国幻想も満たせる。そうしたフェイクに、西側は依存してきたというのだ。
文字どおり依存症のような「うおおおお!」を誘発し、西側諸国のリベラルを壊滅させた “あの問題” となると、トッドの舌鋒はより辛辣だ。

遺伝学によれば、男(XY染色体)を女(XX染色体)に変えることはできないし、その逆もまた不可能である。にもかかわらず、それができると主張することは、虚偽を肯定することで、典型的なニヒリストの知的行為である。
虚偽を肯定し、虚偽を崇拝し、虚偽を社会の真理として押し付けたいという欲求が、ある社会カテゴリー(中流階級のどちらかといえば上層部)とそのメディア(『ニューヨーク・タイムズ』紙、『ワシントン・ポスト』紙)を支配しているのだとしたら、私たちはニヒリスト宗教を目の前にしていることになる。
同書、277頁
だいぶ前に書いたが、ロシアには過酷な自然・社会環境ゆえの「ニヒリズムの文明」とも呼ぶべき特質がある。もちろんプーチンは性別のトランスなんて認めるはずはないが、そこは今回の話のポイントではない。
嘘でも「ウケれば/売れれば別にいい」と嘯く、西側のニヒリズムは市場主導のものだ。ところがそれが、歴史の中で「勝つかと正しいかは関係ない」ことが骨身に沁みたロシアの、国家主導のニヒリズムに敗れつつある。
モードとトラッドと、2つのニヒリズムが衝突するや、なんとダサくて野蛮に見えた古い方が勝ってしまう。おそらくそれがいま起きていることだ。

毎年8月刊の『倫理研究所紀要』で書き継いでいる、「現代性の古典学」も今年で3回目。ずばりロシアで伝統が培うニヒリズムとはなにものかを、これ以上なく体現する小説を採り上げた。
書かれたのは、1866年。日本でいえば明治維新のまさに直前で、ここから「西側」をめざして文明開化まっしぐらな時代だ。
ところがその年、ギャンブル依存の気のあった隣国の作家は、こう書く。
ルーレットが作られたのは、もっぱらロシア人のためですよ……ぼくらは、たとえばルーレットのように2時間かそこらで労せず金持ちになれる手段を大歓迎しますし、そういうものにまったく目がないんですね。つまりそこのところが、ぼくたちの気持ちにおおいに媚びるわけですよ。
(中 略)
だって、じっさいのところまだわかっていないわけでしょう、ロシア式のはちゃめちゃと、勤勉な労働によるドイツ式の蓄財法とでは、どっちが醜悪か?
亀山郁夫訳、54-5頁
まじめに働くから報われるとも、正しい主張だから広まるとも、実力のある者が勝つとも思わない(=思えない)ニヒリズムは、すべてがルーレット賭博の出目で決まる世界に似ている。
今回の寄稿では、ドストエフスキーのこの洞察を、トッドほかを媒介にしながらウクライナ戦争のみならず、資本主義はおろか民主主義までカジノ化してゆく現在の写し絵として読んでいる。
手に入れにくい冊子かもだが、心配はご無用で、秋に出す『なぜ「まちがえた」と言えないのか』にも、アレンジを一変したリミックス仕様で収めるつもりだから、もう少し待ってほしい。
ニヒリズムが生み出す唯一の価値あるものは、それに耐え抜くための文学だろう。依存の果てに吐瀉物のようなコメントを垂れ流してもセンモンカにしかなれないが、小説を綴れば古典になることがある。どちらを読むべきかは自明である。
参考記事:これまでの連載2回につき


(ヘッダーは、朗読YouTubeのサムネイルより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年8月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください







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