600万人以上のユダヤ人がナチス・ドイツ軍の蛮行の犠牲となった後、「なぜ神はユダヤ人虐殺を黙認されたか」「神はどこにいたのか」といったテーマが1960年から80年代にかけ神学界で話題となった。神学界ではそれを「アウシュヴィッツ以降の神学」と呼んでいる。例えば、ドイツの実存主義哲学者のハンス・ヨナス(1903~93年)は「アウシュビッツ以後の神」という著書を出し、ナチス・ドイツの絶対悪に対してなぜ神は沈黙していたのか、暴力の神学的意味などを追求した一人だ。同時に、「神の死」の神学が1960年代に登場してきた。アウシュヴィッツ以降、神の全能性、善性に疑問が呈されていった。

ユダヤ人作家エリ・ヴィーゼル(2012年)、ウィキぺディアから
ユダヤ人は「なぜ正しい人が理不尽に苦しまなければならないのか」という深い苦悶に満ちた問いを神に投げかけてきた。その際、ヘブライ語で「なぜ」という意味のラーマ(どうして)を発した。旧約聖書(ヘブライ語)には約180回の「ラーマ」が記述されている。その中でも「ヨブ記」には約20回の「ラーマ」という言葉が出てくる。ヨブは神に向かって「なぜ(ラーマ)私を標的とされるのですか(ヨブ記7:20)」「なぜ(ラーマ)御顔を隠されるのですか(13:24)」と、痛切な問いを何度も投げかけている。その意味で、「ヨブ記」は「ラーマ物語」だ。
「ヨブ記」の筋を簡単に紹介する。
「主人公のヨブは、神を敬い、悪を遠ざけて生きる極めて誠実な大富豪だった。ある日、サタン(悪魔)が神に『ヨブが信心深いのは、神から富や健康を与えられているからだ。それらを奪えば神を呪うはずだ』と挑発する。神はサタンの言い分を退けるため、ヨブの命を取らない条件で試練を許可する。ヨブは一瞬にしてすべての財産、最愛の子供たち、そして自身の健康(全身のひどい皮膚病)を失ってしまう。お見舞いに来た3人の友人たちは、『神が理由もなく人を罰するはずがない。お前が何か悪いことをしたからだ(因果応報)』とヨブを責め立てる。しかし、ヨブは自らの無実を訴え、理不尽な現実に対して神に問いかけ続ける」
興味深い点は、ヨブはユダヤ人ではなく、「ウツの地」出身の男だということだ。「ヨブ記」は、「ユダヤ人ではない異邦人のヨブ」を主人公に選び、「なぜ正しい人が理不尽な試練を受けるのか」というユダヤ人の葛藤を人類共通のテーマに止揚して追求していったわけだ。
一方、聖書の新約聖書にも有名な「ラーマ」が出てくる箇所がある。十字架にかかる直前、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」(「(「マルコによる福音書)と叫ばれた。その中の「レマ」はヨブ記に登場するヘブライ語の「ラーマ」と同意語のアラム語でイエスが当時使用していた言語だ。
イエスが十字架で叫んだこの言葉は、実は旧約聖書の「詩編22編1節」の引用だ。詩編22編はヘブライ語で書かれているため、本来の聖書テキストには「ヨブ記」と全く同じ「ラーマ」という文字が刻まれている。イエスは、「ヨブ記」のヨブと同じように「正しい人がなぜ理不尽に苦しまなければならないのか」という深い苦悶が満ちた旧約聖書の言葉(ラーマ)を、自分の苦しみの中でアラム語の響き(レマ)に変えて叫んだというわけだ。
イエスは神の召命を受け、神のみ言葉を弟子たちや貧しい人たちに述べ伝えていったが、全ての人に裏切られ、十字架の上で神に「なぜ(レマ)」と問いかけた。ただし、イエスはその直後、「父よ、私の霊をみ手に委ねます」と言って、息を引き取られている(「ルカによる福音書」第23章)。
ユダヤ人作家で1986年のノーベル平和賞受賞者エリ・ヴィーゼル氏(1928~2016年)は自身のホロコースト体験を書いた著書「夜」の中で、「神はアウシュヴィッツで裁判にかけられた。その判決は有罪だった」と述べている。
ヴィーゼル氏の証によると、アウシュヴィッツの収容所の冬の夜、伝統的な信仰を持つユダヤ人(ラビたち)によって、「神を被告人とする裁判」(即席の宗教法廷)が開かれた。裁判は単なる感情的な怒りのぶつかり合いではなく、ユダヤ教の聖法(タルムード)に則って極めて厳格かつ理性的に進められた。罪状は「契約不履行」および「人類(選民)への虐殺の黙認」だ。神はかつてユダヤの民を「守護する」という契約を結んだはずである。それにもかかわらず、罪のない子供たちや何百万人もの同胞がガス室で虐殺されるのをなぜ沈黙して見過ごしているのかだ。
数夜にわたり、証言が集められ、神を弁護する意見(「人間に自由意志を与えた結果だ」「神の深い意図は人間に測れない」など)も出されたが、最終的に3人のラビは全員一致で有罪判決を下した。曰く、「全能の神は、自らの被造物と人類に対する罪において『有罪』である。トーラーに基づき、神はイスラエルの民を守るという契約に違反した」というのだ。
この話には続きがある。有罪判決が下された直後、静まり返った暗闇のなかで、ラビの一人が空を見上げて、「判決は出た。さあ、夕暮れの祈りの時間だ」といい、神を有罪としたばかりの囚人たちは、全員で立ち上がり、何事もなかったかのように神を讃える祈りを捧げ始めたというのだ。「ラーマ」と問い続けるユダヤ人の神への信頼は変わらなかったのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2026年8月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。







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