- 労働組合の衰退は、働く人々の交渉力の衰退である。
- 企業別組合は正社員を守る一方、労働者を企業ごとに分断した。
- 非正規、下請、フリーランスなどの低い労働条件は、正社員の交渉力も弱める。
- だからこそ、組合は企業の境界を越えて働く人々を結び直す必要がある。
- Genovesiの公的信義と公共幸福は、他者との協力と交渉を通じて生活をつくる社会を示している。
- 労働組合の再興とは、「社員」を守ることから「労働者」が自ら働く条件を交渉できる社会へ転換することである。

失われたのは組合員数だけではない
「労働組合は必要だ」と言われても、多くの人には自分と関係のない話に聞こえるだろう。組合に加入していない人には縁遠い存在であり、経営者には労使対立を持ち込む組織と映るかもしれない。若い世代のなかには、春闘で賃上げを要求する団体という程度の認識しか持たない人もいる。
ここで問うべきなのは、なぜ日本では、働く人々が互いの経験を共有し、職場の問題を共通の問題として捉え、企業と交渉する力を失ったのかということである。
長時間労働、ハラスメント、不透明な人事評価、雇用への不安、正社員と非正規雇用労働者との処遇格差は、それぞれ異なる形で現れる。その背後には、職場で生じた困難が共通の課題として扱われる前に、本人の能力、適応力、性格、自己責任の問題へ還元されるという共通の構造がある。
一人で賃上げを求めれば個人的な不満として扱われ、仕事量の過大さを訴えれば能力不足を疑われる。評価の不透明さを問題にすれば結果を受け入れられない人とみなされ、ハラスメントを訴えれば職場の人間関係を乱す側に置かれることさえある。本来は働く条件や職場運営に関わる問題が、こうして個人の内面へ押し戻されていく。
同じ問題を経験している人々がいても、その経験を持ち寄り、共通の言葉で表現する回路がなければ、それぞれが一人で会社と向き合うほかない。企業と個人との間に大きな力の差がある以上、働く人は不満を抱えながら従うか、その職場を去るかという選択を迫られる。
日本の労働組合の衰退が奪ったものは、働く人々を結び、個人の苦境を共通の問題へ変え、自らの働く条件を交渉する力である。
この喪失を考えるうえで重要な手がかりとなるのが、18世紀ナポリの経済学者Antonio Genovesiの市民経済論である。
市場を支える公的信義
Genovesiは、人間が他者との交換と協力を通じて自らの必要を満たす存在だと考えた。市場は孤立した個人が私的利益を競うだけの場所ではなく、人々が互いを必要とし、それぞれの能力や知識を生かしながら生活を組み立てる場所でもある。
市場が広がれば、人々は家族や親しい知人に加え、生活背景も価値観も知らない相手と取引するようになる。見知らぬ者同士が継続的に取引するためには、契約を強制する法律に加え、約束された手続きが守られ、責任の範囲が明らかにされ、協力を繰り返せるという社会的な予期が必要になる。
Genovesiが重視した公的信義、fede pubblicaとは、相手を無条件に善人だと信じることではない。約束、手続き、責任の範囲が守られ、見知らぬ者同士でも取引や協力を反復できるという予期である。
公的信義が弱い社会では、力の強い側が条件を変更し、弱い側へ負担を転嫁する。形式上は自由な契約であっても、一方だけが契約条件を実質的に決められるなら、弱い側には不利な条件を受け入れるか、取引から退出するかという選択しか残されない。
現代の職場にも、同じ問題が存在する。企業と労働者の間には、情報、資金、意思決定権、交渉力の差がある。労働者が一人で企業と向き合えば、労働契約は形式上自由であっても、賃金や働き方を実質的に決める力は企業側へ集中する。
労働組合の本来の意味は、力に差がある者同士の間に、実質的な交渉を成立させることにある。働く人々の声を束ね、企業による一方的な決定を抑え、合意した約束と手続きを守らせる。労働組合は、企業の力がそのまま結論になることを防ぎ、労使の交渉を成り立たせる。
労働組合の価値は、力の差がある者同士の間にも、約束と交渉が成り立つ条件をつくることにある。
会社の内側に閉じた互恵
戦後日本の企業別組合は、企業内部の労使関係を安定させ、正社員の長期雇用と生活を守るうえで大きな役割を果たした。企業の成長が雇用の安定と賃金の上昇につながった時代には、経営者と労働者が企業の発展という共通の利益を持つこともできた。
組合は従業員の意見を集約して経営側と交渉し、企業内部の処遇改善を実現した。企業側も長期雇用を保障することで、技能の蓄積と社員の協力を得た。そこには、企業の成長を社員の生活向上へ結び付ける一定の互恵性が存在した。
その互恵は企業の内部に強く形成された。働く人々は、職業や産業を共有する労働者として横断的に結び付くより、特定企業に所属する社員として守られた。企業と社員との一体性が強まるにつれて、自社と他社、正社員と非正規雇用労働者、発注企業と下請企業との境界も鮮明になった。
企業別組合が守った雇用と賃金は、主として大企業の正社員に向けられた。その外側に置かれた非正規雇用労働者、中小企業労働者、下請企業で働く人々は、企業内部の交渉から切り離された。
正社員の雇用を維持するために周辺業務が外注化され、非正規雇用へ置き換えられれば、企業内部の安定は外部の不安定によって支えられる。原材料費や人件費の上昇が取引価格へ反映されず、下請企業へ吸収されれば、大企業の利益と雇用が保たれる一方、中小企業で働く人々の賃金は抑えられる。
企業別組合は自社の正社員を守ることを活動の中心に据えた。そのため、企業内部の安定を誰が、どのような負担によって支えているのかが、交渉の視野から外れた。
企業別組合がつくったのは、会社に選ばれた社員のための、企業内部に閉じた互恵であった。
労働者を社員に変えた代償
企業別組合がもたらした、より深い変化は、働く人々の自己理解を、企業を越えて共通の利害を持つ「労働者」から、会社と運命を共有する「社員」へ変えたことである。
日本では、会社に入ることが「社会に出ること」とされ、会社に適応することが「社会人になること」と理解されてきた。会社の文化を身に付け、組織の目標を自分の目標として受け入れることが、一人前の条件とされた。
企業別組合も、この会社中心の社会像を支えた。組合は経営側と交渉する主体でありながら、企業の存続と成長を労使共通の前提として受け入れた。企業の競争力を高め、その成果を社員へ配分するという構図のなかで、労働者は会社から独立した権利主体である前に、企業共同体の構成員として位置付けられた。
この仕組みが機能している間、企業への帰属は社員に一定の安心をもたらした。その一方で、企業への帰属によって利益が守られるほど、企業の境界を越えた連帯は弱くなった。同じ仕事をしていても正社員と非正規雇用労働者は別の存在として扱われ、同じ産業を支えていても、発注企業と下請企業で働く人々は異なる利害を持つと理解された。
他社の賃金が低ければ自社の競争力は高まり、非正規雇用労働者を安く雇えれば正社員の雇用を維持しやすい。下請価格を抑えれば、自社の利益を確保できる。こうした判断の積み重ねによって、労働者は会社ごとに分断され、自社の利益を通じて自らの利益を考えるようになった。
企業別組合は労働者を守った。しかし、守られたのは企業を越えて連帯する労働者ではなく、会社と運命を共有する社員であった。
その結果、日本社会は、企業の外にいる働く人々を自分と共通の利害を持つ存在として捉える力を失った。労働条件を社会全体で引き上げるより、自社の社員を守ることが優先され、労働運動は企業の境界を越えて広がる力を弱めたのである。
他者の低賃金は自分の利益にならない
弱い立場に置かれた人の労働条件が低ければ、自分の雇用や利益は守られるように見える。非正規雇用労働者が景気変動の調整を引き受ければ正社員の雇用は安定し、下請企業が低い取引価格を受け入れれば大企業の利益は確保される。外国人労働者が別の労働市場で働いているように見える間は、その低い労働条件も自分には関係のない問題に映る。
しかし、その安定は長く続かない。企業が正社員の仕事を、より低い条件で働く人へ置き換えられるなら、正社員の交渉力も低下する。下請企業が賃上げの原資を確保できなければ、産業全体の賃金は伸びず、地域の所得と消費も増えない。外国人労働者が低い賃金と不安定な雇用を受け入れざるを得ない状況も、その水準を労働市場全体へ波及させる。
企業、雇用形態、国籍、契約形態によって働く人々が分断されていれば、企業は異なる条件で働く人々を競わせ、より低い費用で確保できる労働力へ仕事を移せる。
不利な立場にある人の労働条件を改善することは、働く人すべての交渉力を守る取り組みである。その人々が受け入れざるを得ない条件が、やがて労働市場全体の交渉の出発点になるからである。
Genovesiの互恵思想は、他者の利益と自らの利益が深く結び付いていることを示している。取引先が疲弊すれば自社の生産も維持できず、地域経済が衰えれば企業を支える人材も消費も失われる。他者が公正な条件で働けることが、自分の働く条件を持続可能にする。
最も弱い立場で働く人の労働条件は、その人だけの問題ではない。そこに置かれた低い基準が、やがてすべての働く人の基準になる。
組合員だけを守る組合は、組合員も守れない
これからの労働組合には、組合員の利益を、企業の外側で働く人々の利益と結び付けて捉える視野が必要である。企業外部の低賃金と不安定雇用は、やがて組合員の仕事と交渉力にも及ぶからである。
自社の正社員の賃上げを実現しても、その原資が非正規雇用への置き換え、業務の外注化、下請企業への価格引下げによって確保されるなら、働く人々全体の交渉力は高まらない。企業の外側に低賃金と不安定雇用が広がるほど、正社員の仕事も外部化の圧力にさらされる。
だからこそ、労働組合は交渉の視野を、企業内部の賃金と雇用から、それらを支える産業構造と取引関係へ広げる必要がある。
大企業の組合が適正な価格転嫁を求めることは、産業全体の賃金と自社の雇用を支える組合活動である。取引先が必要な利益を確保し、そこで働く人々の賃金を引き上げられれば、産業を支える企業と人材が維持され、自社の生産と雇用も持続可能になる。
非正規雇用労働者との処遇格差を縮めることは、仕事をより低い条件へ置き換える誘因を弱め、正社員の仕事と交渉力を守る。
雇用契約を持たないフリーランスやプラットフォームを通じて働く人々についても、報酬や仕事の条件を一方的に決められ、自ら交渉する力を持たないのであれば、雇用労働者と共通する問題を抱えている。契約形式の違いを理由に交渉の外側へ置けば、企業は雇用から業務委託への転換を進め、交渉力を持たない働き手を増やせる。
組合員だけを守ろうとする組合は、やがて組合員さえ守れなくなる。企業の外側に置かれた人々の弱さが、企業の内側で働く人々の交渉力を掘り崩すからである。
対立を交渉へ変える
労使は、企業の継続という共通の課題を持ちながら、賃金、労働時間、雇用、利益配分をめぐって異なる利害を持つ。この違いを表に出し、交渉可能な形で扱うことが、労働組合の役割である。
「同じ会社の仲間」という言葉で利害の違いを覆えば、労働者の要求は企業への協力を損なうものとして扱われる。一方、すべての問題を労使間の争いに集約すれば、企業の外側にある取引構造が見えにくくなる。
とりわけ中小企業では、経営者自身が発注企業との関係で弱い立場に置かれている場合がある。原材料費や人件費の上昇を販売価格へ反映できなければ、経営者と労働者は限られた利益を奪い合うことになる。
労働者は賃金と労働条件について企業と交渉しながら、経営者とともに不公正な取引条件の是正を求めることもできる。労使の利害の違いを明確にしながら、その企業を圧迫する産業構造を共同で変えるのである。
Genovesiの公的信義は、異なる利害を持つ人々の間に、約束と手続きに基づく継続的な協力を成立させる。労働組合も、すでに存在する利害の違いを可視化し、その対立を沈黙や服従から交渉へ変える役割を担う。
健全な労使関係とは、対立のない関係ではない。力の差によって結論が決まる前に、対立を交渉へ変えられる関係である。
政府が賃上げを求める社会の弱さ
日本では、賃金が上がらない状況に対し、政府が企業へ賃上げを要請することが当然のように期待される。しかし、政府が働きかけなければ賃金が動かない社会は、働く人々の交渉力が衰えた社会である。
賃金は本来、働く人々と企業との交渉を通じて決められる。労働組合が弱まり、個々の労働者が企業と直接向き合うようになれば、賃金を押し上げる力は働かない。そこで、政府が企業へ賃上げを求め、企業がそれに応じ、働く人々は結果を待つという構図が生まれる。
賃金が上がったとしても、働く人々自身がその決定に関与していなければ、交渉力は回復しない。次の賃上げも政府と企業の判断に委ねられ、労働者は自らの賃金を交渉する主体から、上から処遇を与えられる存在へ変わる。
国家には、最低賃金、労働時間、安全衛生、差別の排除、団結権など、生命、尊厳、公正な労働条件に関わる下限を保障する責任がある。さらに、労働組合への参加を理由とする不利益な取扱いを防ぎ、企業の境界を越えた団結を可能にし、働く人々が労働法と交渉手段を学べる環境を整える必要がある。
国家が支えるべきなのは、働く人々が自ら団結し、賃金と労働条件を交渉できる基盤である。政府が賃上げを代行するほど、労働者は賃金を決める主体から遠ざかる。
公共幸福としての労働
Genovesiが公的信義の先に見ていたのが、公共幸福、pubblica felicitàである。
公共幸福とは、私的満足の総和や政府による幸福の配給ではなく、人々が他者との取引や協力を通じて、自らの生活を組み立てられる状態を意味する。
この視点に立てば、労働者の幸福には、生活を支える賃金とともに、自分の仕事に関わる決定へ参加し、職場の問題を語り、働く条件を変える力が含まれる。企業の判断に従うだけの人は、所得を得ることはできても、社会をつくる主体としての位置を持ちにくい。
働く人々が自分の経験を言葉にし、他者の経験と結び付け、共通の問題として企業へ示し、その解決について交渉する。労働者はその過程を通じて、企業から処遇される人的資源から、自らの生活に関わる条件を他者とともに形成する主体へ変わる。
労働組合再興の意味は、働く人々が自分たちの状況を理解し、共通の問題を発見し、それを変えるために行動する力を回復することにある。
職場で声を上げ、他者の意見を聞き、利害の違いを調整し、企業と交渉する経験は、職場の外でも公共を担う力につながる。職場で沈黙と服従を身に付ければ、社会の問題に直面したときにも、政府や企業が解決するのを待つようになる。
公共幸福は、よい会社から与えられるものではない。働く人々が、働く条件を他者とともに変えられるところから始まる。
職場から市民社会を取り戻す
労働組合再興が目指すのは、企業の境界を越えて、働く人々の交渉力を社会全体で引き上げることである。
戦後の企業社会は、終身雇用と企業別組合を通じて正社員に一定の安定をもたらした。同時に、その外側に置かれた人々を不可視化し、働く人々を企業の境界によって分断した。
いま必要なのは、企業、雇用形態、国籍、契約形態によって分けられた人々を、共通の利害を持つ労働者として結び直す力である。
企業内部の賃上げを外部の低賃金で支え、正社員の安定を非正規雇用労働者の不安定によって守り、大企業の利益を下請企業の負担によって確保する構造を改める。その取り組みを通じて、労働組合は一部の組合員を囲い込む組織から、働く人々の交渉力を社会全体で引き上げる主体へ変わることができる。
労働組合の再興とは、企業の内側に閉じ込められた互恵を、働く人々すべてを支える互恵へ開くことである。
会社ごとに分断され、一人で企業と向き合わされるかぎり、働く人々は自らの条件を決められない。賃金を与えられ、保護を待ち、会社への適応によって評価される存在にとどまる。
職場から市民社会を取り戻すとは、会社に従う「社員」を守ることではない。企業の境界を越えて連帯し、自らの働く条件を交渉する「労働者」を取り戻すことである。
編集部より:この記事は財政学者・島澤学氏のnote「市民経済論で読む日本」2026年9月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は島澤学氏のnote「市民経済論で読む日本」をご覧ください







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