黒田清子さまなど戦後世代のプリンセスたちの結婚物語

昭和天皇と明治天皇の4人ずついた皇女の結婚については、「明治天皇の4人の皇女は全員が皇族と結婚し子孫を残す」「昭和天皇の4人の皇女の結婚相手はこうして決まった」で紹介した。そして大正天皇には皇女はいなかったから、昭和・平成については、三笠宮家、高円宮家、そして清子内親王の結婚について、新刊『誤解だらけの皇位継承真実』(清談社)や『系図でたどる日本の皇族』(宝島社)をもとに、明治天皇の4人の皇女の婚活事情を紹介する。

紀宮清子さまの結婚相手探し

平成の両陛下には、皇太子殿下と秋篠宮殿下と黒田(紀宮)清子さまという3人のお子様がおられる。そして、皇太子殿下ご夫妻には、愛子さまという内親王が、秋篠宮殿下には眞子さま、佳子さまという内親王と悠仁さまという親王がおられる。清子さまは秋篠宮殿下と同級生で東京都庁勤務の黒田慶樹氏と結婚された。

黒田(紀宮)清子さま Wikipediaより

清子さまは成年直後の1990年から結婚についての質問に対し、「遅くない方がよいが、いつまでにとは申し上げない」といった趣旨で答えられている。誕生日のお言葉では、1996年には「基本的にあまり理想を描いて考えることはしません」、1997年には「この先の長い将来にかかわる事柄なので、急ぐだけでなく大切に考えたい」と答えておられる。

その一方で、1994年ごろには「紀宮さまのお相手」報道がかなり過熱し、清子さま自身が、名前を出された男性に迷惑がかかるので報道を自粛してほしいと求められた。

このあたりは、霞会館を舞台としたネットワークのなかで浮上した男性がいて、結婚相手としてどの程度意識したものであったかは不明だが、交流はあったのだろう。ただ、報道が先行したことで、どちらが慎重になったかは不明だが、先へ進めなかったということだろうし、あまりの報道の過熱に、新たな候補者との出会いの場をつくることすら難しくなってきたとしても不思議ではない。

また、旧華族で皇女を迎えて恥ずかしくない環境を整えられる家がどれだけあるかも疑問である。

そうした手詰まりのなかで、旧華族にこだわらなくてもよいのではという割り切りを両陛下などもされたのだと思うが、秋篠宮殿下が自らお相手を紹介し、段取りを付けられたということのようだ。宮内庁も両親も手詰まりのなかで、秋篠宮殿下の大ヒットと当時はいわれた。

秋篠宮さまが結んだ黒田慶樹氏との縁

黒田慶樹氏は秋篠宮さまと学習院初等科以来の親しい友人で、秋篠宮邸での友人・知人の集まり「さんまの会」にも招かれていた。清子さまとも子供時代から面識があった。2003年1月、秋篠宮さまが亡くなった知人を偲んで開いたテニスと懇親会で、清子さまと黒田氏が久しぶりに会う機会があった。清子さま自身は、そこで黒田氏の「温かな笑顔」や人との接し方が印象に残ったと後に説明されている。

その後、秋篠宮邸で何度かお会いになり、2004年初めごろ、黒田氏が秋篠宮邸で清子さまに「私と結婚してくださいませんか」と求婚し、その場で清子さまが承諾。その年2月には両陛下に紹介され、結婚への手続きに入っている。

東京都職員だから、給料がそれほどのものではありえないが、安定はしているし、都庁でも人事などで皇室への影響を考えながら対応できるから安心で、定年退職後も、公益財団法人東京動物園協会副理事長という仕事に就いている。

父親は学生時代に亡くなっていて、母親がそれなりの住まいに住んでいるので、それなりに安定した経済環境のようだ。また、清子さまがそれほど派手な社交をする方ではないのでこれでいいのだが、もし派手な社交生活が好きな方だったり、また、お子様はおられないが、何人もおられて天皇の孫にふさわしい教育をしなくてはならないということだったりすれば、厳しかったかもしれない。

近衛家に嫁いだ甯子さま

三笠宮家には3男2女があり、孫世代では9人のうち6人が女性である。大正天皇の孫にあたるので親王・内親王の称号を持つ。その子供たちは、王・女王になる。

三笠宮崇仁殿下の長子である甯子さまは、細川護煕元首相の弟で近衛家を継いだ近衛忠煇氏の夫人である。学習院大学文学部イギリス文学科の在学中に結婚された。

近衞甯子さま(甯子内親王) Wikipediaより 1965年

近衛文麿には文隆という嫡男があったがシベリア抑留中に死亡し、子は庶子だけだったので、次女の次男が文隆未亡人の養子として近衛家を継ぎ、名も忠煇と改めた。2度のジュネーブ勤務を経て、国際赤十字赤新月社連盟(IFRC)の会長である。また、甯子さまも日本赤十字社副総裁で、学習院女子部の同窓会常磐会の会長である。

高松宮妃喜久子さまの1965年のインタビューによると、百合子さまが日赤関係のイベントか何かで忠煇氏を見て「いい方だ」と気に入り、忠煇氏周辺と交流があった喜久子さまが仲立ちをしたという。忠煇氏が近衛家の養子となった1965年3月とほぼ同時だったそうだ。

五摂家の当主と内親王という組み合わせで、本人たちのレベルも高く、誰もが納得する組み合わせだった。

ただ、忠煇氏がマスコミにも積極的に対応したことに対しては、宮内庁で好ましくないという受け取りもあったようだ。1965年の『入江相政日記』を見ると、5月末には「甯子内親王の御縁談」が具体化し、7月には近衛忠煇氏の勤務先だった日赤社長・島津忠承に入江が会い、9月には忠煇氏について浮かれないように釘を刺している。そういうことをするから、その後、ますます皇族の縁談が難しくなったのではないかという気もする。

裏千家に嫁いだ容子内親王

裏千家の若宗匠と結婚したのが、崇仁親王の次女である容子内親王(1951年生まれ)である。学習院大学法学部法学科に在学中にスイスの全寮制の学校へ留学し、ソルボンヌ大学に進まれ、本人はもっといたかったのに三笠宮家では帰国を望んだともいわれている。学習院大学法学部に復学されたのだが、卒業されるのは2年間遅れた。

千容子さま(容子内親王) Wikipediaより 1964年

旧華族との結婚にあまり気が進まなかったのかもしれないが、31歳のときに5歳下の裏千家の若宗匠、坐忘斎千宗之(16代家元・千宗室)と結婚された。

先々代の14代目の夫人だった千嘉代子は、先代の豪商の娘だが、優れた手腕で裏千家の隆盛の立役者だった。また、15代目の鵬雲斎の夫人の千登三子は、東京室町の呉服商塚本商店の娘で作家・吉川英治の紹介で結婚した。フランス語の勉強を続けることを結婚の条件にしたというが、国際的な活動も含めて社交の世界やマスコミ対応でも手腕を発揮した。

そういう流れがあり、歴代の裏方が活躍できる素地があった。江戸時代の身分制のなかで、茶の家元がそれほど高い地位だったわけではないが、東京遷都後の京都では、白足袋族といわれる家元や僧侶などが、疑似貴族文化を維持している。なかでも裏千家は筆頭というべき存在であるが、内親王を迎えることによって本物の名門になった。

皇室から見ても伝統的な名門貴族が凋落するなかで、かつての名家に似た位置づけを獲得してきた裏千家との縁組みは非常に好都合で、昭和天皇も喜ばれたという。

ちなみに表千家の母は、細川護熙・近衛忠煇の異母妹(死去後、熊本藩家老家出身の継室との間の子)、夫人は竹中工務店創業家の娘である。

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