
シャウエッセンがリニューアルされた。
日本ハムによれば、主力商品の内容量は117g×2パックから107g×2パックへ変更された。参考小売価格は702円のままだ。
一方、同社は「1本あたりの重量を増やすことで肉感を高め、より張りのある食感と食べ応えを実現した」と説明している。

この問題については、アゴラでもすでに「シャウエッセン「時代に負けてたまるか」広告が炎上した「分かりやす過ぎる」背景」として論じられている。

117gが107gになれば、消費者はすぐ気づく。
しかも広告がそれを「改善」のように見せれば、「ごまかされた」と感じて反発が起きる。
では、同じように生活者の負担を増やす変化なのに、なぜ駅のゴミ箱の撤去やサービス縮小は、そこまで強く非難されないのか。
ここに、商品の値上げとは別の「見えにくい負担転嫁」の問題がある。
なぜだろう。
商品には「グラム」がある
商品のシュリンクフレーションは見つけやすい。
117gが107gになれば、10g減ったことが分かる。
価格が同じなら、実質的な値上げだと計算することもできる。
ところがサービスにはグラム表示がない。
駅からゴミ箱がなくなる。窓口が減る。営業時間が短くなる。車内販売がなくなる。
価格を上げなくても、受け取れるサービスが減れば利用者にとっては負担増である。
しかも失われたサービスのコストは、利用者側へ移る。
ゴミ箱がなければゴミを持ち帰る。窓口がなければ自分で機械を操作する。営業時間が短くなれば、自分の行動を合わせる。
これも一種の「サービスのシュリンクフレーション」ではないか。
ゴミ箱は危機のたびに消える
駅のゴミ箱は象徴的だ。
日本では1995年の地下鉄サリン事件以降、不審物やテロへの警戒が強まり、駅のゴミ箱撤去が繰り返されてきた。
そしてコロナ禍では、今度は感染対策を理由として、公共施設や店舗などでゴミ箱の撤去が行われた。
しかしSARS-CoV-2の接触感染については、その後、主要な感染経路ではないことが明確になっていった。
米CDCは2021年、汚染された表面との1回の接触から感染する確率について、一般に1万分の1未満と整理している。
トイレなどは、社会が正常化するとともにほぼ元に戻った。
利用できなければ施設そのものの利用に大きな支障が出るからだろう。
ところがゴミ箱は違う。
なくても電車は走る。
利用者が持って帰れば済む。
事業者から見れば、回収、袋交換、清掃、分別、異物処理などの業務も減る。
利用者が不便を引き受ければ、サービス提供者側には復元する強い動機が生まれない。
都営地下鉄は「再設置予定なし」
東京都交通局は2022年、利用者からゴミ箱の再設置を求められた際、「お客様の安全性向上の観点から、都営地下鉄各駅の旅客用ごみ箱を撤去いたしました」と説明した。
さらに、「現在、ごみ箱を再設置する予定はございません」とも回答している。
安全が理由なら仕方ない。そう思ってしまいそうになる。
だが、ここで海外を見ると別の選択肢が見えてくる。
ロンドンは「撤去」で終わらなかった
ロンドン地下鉄でも、テロ対策のためゴミ箱が撤去された。
しかし永久撤去では終わらなかった。
ロンドン地下鉄は英国運輸当局と協議し、透明な袋を使用すること、定期的に点検すること、頻繁に回収することなどを条件として、2006年にゴミ箱を再導入した。
さらに2010年には、一般ゴミ箱を634個から805個へ増やす方針まで示している。
英国政府の現在の鉄道・バス施設向け安全指針でも、ゴミ箱について単純な撤去だけを求めてはいない。
中身が見える透明袋式。あるいは耐爆型ゴミ箱。設置場所を工夫し、頻繁に点検・回収する。

つまり、「危険がある。だからサービスをなくす」だけではなく、「危険がある。では、どうすれば安全にサービスを提供できるか」と考えている。
パリも「安全か清潔か」の二択にしなかった
パリでも1995年の爆弾テロ後、従来型ゴミ箱が使用停止になった。
しかしその後、半透明袋や耐爆型の容器が導入された。
パリ警視当局自身が、透明型容器について、テロ対策と都市の清潔さを両立するために適した方法だと説明している。
ここが重要だ。
ロンドンもパリも、テロの危険を否定したわけではない。
危険を認めたうえで、サービスを復元する方法を探したのである。
危機にはラチェット効果がある
危機が起きると、サービスを削減する判断は容易になる。
テロが起きた。安全のためゴミ箱を撤去する。感染症が流行した。感染対策のため設備を使わせない。
非常時なのだから、多くの人も受け入れる。
問題は、その後だ。
危機が去ったからといって、サービスは自動的には戻らない。
戻すには費用がかかる。
ゴミ箱を設置すれば、回収しなければならない。清掃しなければならない。管理責任も生じる。
一方、置かないことによって生じる不便は利用者が負担する。
しかも、その不便には価格が付いていない。
危機のときにはサービスを下げる強い力が働く。
しかし平時になっても、元へ戻す力は弱い。
ラチェットのように、一方向へ動きやすい。
「安全」は強すぎる理由になる
シャウエッセンなら117gが107gになったと誰でも確認できる。
だから「食べ応えが増した」と説明されても、「でも総量は減っている」と言える。
ところが、「安全のためゴミ箱を撤去しました」と言われると反論しにくい。
安全と利便性なら、安全を選ぶのが当然であるかのような構図になるからだ。
コロナ禍では、さらに強かった。
「感染対策のため」と言われれば、そのサービス低下に疑問を呈すること自体が、社会の安全を軽視しているかのように扱われかねなかった。
しかし本来問うべきなのは、「安全か、サービスか」という二択ではない。
「安全を確保しながらサービスを維持できないのか」である。
ロンドンは透明袋を使った。英国政府は耐爆型ゴミ箱も選択肢として示している。
ならば日本でも、撤去を恒久化する前に代替手段を比較してよい。
私たちは何グラム分のサービスを失ったのか
シャウエッセンが20g減れば数字として残る。
ところがゴミ箱が一つ消えても数字は残らない。
危機の前に何個あったのか。何個戻ったのか。戻さないことでいくらコストが下がったのか。利用者にはどれだけの負担が移ったのか。
ほとんど見えない。
値段を変えずに商品を小さくすることを、私たちは「ステルス値上げ」と呼ぶ。
では、値段を変えずにサービスを小さくし、そのまま戻さないことは何と呼べばよいのだろう。
シャウエッセンは10g減れば気づかれる。
私たちの社会から消えたサービスには、そもそもグラム表示がない。
制度の問題は、問題として認識されなければ検証すら始まらない。私のnoteでは、医療、行政、公共サービス、消費者保護など、日常に埋もれたさまざまな「おかしさ」を問題定義の段階から掘り下げています。








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