『豊臣兄弟!』の描く徳川家康のどこが史実と違うのか

明日のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、さんざんごねていた徳川家康が大坂へ赴き、秀吉に臣従する経緯が描かれることになる。

先週は「徳川家康と秀吉の妹の結婚は家康が望んだ?」で、秀吉の妹の旭(朝日)が家康の正室として送り込まれる話について、『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)の内容も含めて紹介したが、今回は、少年時代を含めて家康がどんな人物として描かれたか、史実とどこが違うかを紹介する。

徳川家康と秀吉の妹の結婚は家康が望んだ?
今夜のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、秀吉の妹の旭(朝日)が家康の正室として送り込まれるお話であるので、『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)の内容も含めて、経緯をめぐる論争を紹介する。旭姫の出自をめぐる謎...

『豊臣兄弟!』の徳川家康(松下洸平)は、幼少期の人質生活で他人を信用しなくなり、義元、信長、秀吉への恐怖と憎悪を抱きながら、感情を隠して生き延びる人物として描かれている。

「豊臣兄弟!」で松下洸平さん演じる徳川家康

人質時代から信長との同盟へ

父の広忠は今川の後押しで西三河を掌握していたので、竹千代(家康)は駿河の今川の人質として送り出されるが、途中で渥美半島の土豪・戸田氏の裏切りで織田信秀に売られてその人質となり、その後、人質交換で今川義元のもとで育つ。

義元から小鳥を与えられて可愛がっていたところ、その小鳥を殺すように命じられるなど過酷な扱いを受けて、他人を信用せず、本心を隠す性格が形成される。

今川義元の命令で大高城への兵糧搬入に成功。しかし、あまりに容易な成功に不審を抱く。そして、義元の敗死のあとも冷静さを失わず、岡崎城を回復する。

信長と同盟を結ぶが、信長とは人質時代から面識があったように描かれる。信長に対して警戒心を持ち、信長の失脚を期待するような態度も見せる。腹心の石川数正に対してさえ本心を明かさない。

また、秀吉が国境まで家康を送る役を命じられるが、出世の秘訣を秀吉から聞かれて、「信長を信じ、誰にもできないことをやり遂げ、熱意を持つことが大切だ」と、親切そうに助言し、秀吉は感激するが、家康は本心と違うことを教えたと石川数正に言う。

信長に妻の築山殿と嫡男の信康が武田方に通じたので処分するように言われ、それを受け入れる。これを悲しむが、信康の遺骸を前に感情を表に出さない。しかし、信長への憎悪を決定的なものにする。

本能寺の変から秀吉への臣従まで

安土城で信長の接待を受けるが、懐には毒薬を隠し持っている。いつでも信長を殺せるという思いによって、かろうじて自分の心を保っている。

接待の料理に毒が盛られる事件が起こり、信長と光秀の緊張が高まる。信長を憎んでいるが、その感情を表面には出さない。堺で信長の死を聞き、津田宗及には伊賀越えをすると宣言するが、実は海路、三河に帰る。

賤ヶ岳の戦いのあと、石川数正を送って名物茶器「初花」を秀吉に贈り、関東の仕切りを頼まれ、北条氏政と会談して依頼するが不調に終わる。

秀吉は大坂城を築き、諸大名に挨拶に来るよう求める。家康は一度は千利休を交えた茶会に出るが、気まずく終わり、織田信雄に秀吉派の家老を殺させて挙兵を決断する。

小牧長久手の局地戦では優勢だったが、秀吉が信雄自身の領地を諸大名に命じて奪い取って屈服させ、四国の長宗我部や紀州勢も攻略されて絶体絶命となる。

だが、天正大地震が起きて東海・北陸が甚大な被害を被ったので、秀吉は早期収拾を図るため、妹の旭を家康の妻にするなどして、秀長と同等の弟として遇する条件で、大坂城で臣従するということだった。

ただ、その過程で人質入りした忠臣・石川数正が秀吉のもとに出奔したことが描かれていた。

全体としての家康は、従来の「律義で忍耐強い家康」よりも、猜疑心が強くシニカルで、冷静で腹黒い策略家という描き方だ。

秀吉に対しては、初めて会ったときには、その率直さが理解できない人物だと思ったが、再会したら何を考えているか分かりやすい普通の武将になったと感想を言っている。

今川家の人質生活と信長との関係は史実と違う

今川家の人質時代は、当時、経済や文化の水準が高かった駿府で、ほかの人質などとも交流し、勉学も積めたので居心地はよかった。

いわば、地方の大口取引先の御曹司がメガバンクに就職したようなもの。しかも、メガバンク会長である今川義元の姪と結婚して早々に子供も授かり、順風満帆だった。

もちろん、今川と松平が仲違いしたら命の危険があるが、父の広忠は早く死んで、三河の統治は今川家臣がしていたので、そのリスクもなかった。

織田との同盟へ至る経緯はあまり描かれていなかったが、最初は今川方につき、今川からの支援が不十分なので織田との関係を修復し、やがて織田についたので、常に家康に主導権はあった。

ただ、妻子を今川から取り戻したときに、妻の築山殿の両親が今川氏から死に追い込まれるなどして、のちに妻子との関係が悪化する原因となった。

築山殿と信康が武田に通じていると疑われて信長から処分を命じられたという古い通説によっているようだったが、築山殿や信康と家康の間に深刻な対立があったことが反映されている。

信長のもとへ使者に行った酒井忠次も嫌疑を何一つ否定しなかったので、信長は家康に思うようにしろと言ったというのが公式の記録である。

むしろ、信長の娘婿である五徳の夫を廃嫡するについて、信長の了解を取ったとみるべきだ。ただ、処分するなら殺したほうがよいと信長に言われた可能性はある。

後年になっても、家康は若い頃の子供だったので子育てに失敗したことを悔やんでいるが、処分を信長に強いられて無念だったとか、後悔しているとは全く言わず、のみならず、六男の忠輝が信康に似ていると言って疎んじたくらいである。

伊賀越えと甲斐・信濃の領有をめぐる史実

本能寺の変のあと、いったん知恩院に入って死ぬとか言ったものの、考え直して伊賀越えで帰還。堺から潮岬回りで船で帰った事実はない。

家康は本能寺の変のあと、織田領のうち、上野を北条に譲り、信濃と甲斐を横領している。

家康の外交目標は、この織田家から簒奪した領地の確保であると思うと、だいたい辻褄が合うと思う。

参考図書として、上記の本のほか、細かい時系列の経緯は、下記の拙著がおすすめだ。

 

(明日につづく)

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