大和郡山といえば豊臣秀長と高市早苗と金魚すくい

なぜ「郡山市」ではなく「大和郡山市」なのか

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、秀長が大和・紀伊・和泉100万石の領主になって大和郡山城主になり、手強い興福寺を相手に苦闘しているところだ。

郡山城跡 SeanPavonePhoto/iStock

そこで、今回は、大和郡山をテーマにしたお話。まず、なんで郡山でなく大和郡山市かなのだが、町村は全国に同じ名前のものがたくさんあるが、市については漢字表記が同じ市はよろしくないと総務省がしている。読み方が同じなのはいいのである。

ただ、例外があって、府中市が広島と東京にあるが、これは、以前は東京都下の自治体の権限が制限され、他道府県の市と同格とみなされなかったからといわれる。もうひとつは、伊達市が北海道と福島にあるが、これは、もともと伊達市の名が藤原朝宗が陸奥国伊達郡の地頭となったことに発し、北海道の伊達市は亘理伊達氏によって開発されたことに発するので、ルーツの地に敬意を示したものだ。

その他は先着順なので、戦後になって市に移行した奈良県の郡山は、歴史的伝統があるにもかかわらず、福島県の新興商業都市である郡山が先に市になっていたので、大和を付すことになった。

奈良県では、奈良市に続く2つ目の市は大和高田市で、3番目が大和郡山市だが、大和高田市も新潟県の高田市が先にあったので、大和が付いている。

城下町・大和郡山の歴史と発展

郡山は戦国時代の筒井氏が奈良を牽制するにふさわしい場所だというので、本拠地を市内の筒井から移した場所で、平城京の南西端に位置する微高地にある。秀長のあとも、増田長盛、本多氏、松平氏(大坂城を再建した家康の孫・松平忠明の系統)らを経て、柳沢吉保の子の吉里が甲府から移封されて15万石で封じられ、幕末まで領主だった(余談だが、天守閣は第1期の伏見城に移築されてなくなった)。

県庁所在地としては、郡山と幕府の奈良奉行所があった奈良の両方に可能性があったが、王政復古のあとだけに、かつての都である奈良が優先された。

ただ、旧制一中にあたる尋常中学は、武士の子で中等教育を望む者が多い郡山に置かれた。しかし、ほかの中高等教育機関は奈良が優先され、奈良県の教育の中心にはなれなかった。

また、関西本線は通っているが、近畿日本鉄道では、大阪から大和八木に大阪線、大阪から西大寺に奈良線が建設され、大阪への交通が不便な都市になったことも打撃だった。

金魚すくいの町と高市首相の地元

名産というと金魚である。甲府から柳沢氏が移封されたとき、家臣の横田又兵衛が甲府から金魚を持参したという説が「最も信頼性がある」とされる。現在も「全国金魚すくい選手権大会」が8月に開かれる。

最近の大和郡山の話題といえば、高市早苗首相の地元であることだ。髙市氏は天理市生まれで、橿原市育ち。最初は奈良市を含む奈良第1区だったが、のちに大和郡山市を中心に天理市を含む第2区に転じている。地元事務所は市内の筒井である。

豊臣秀長は、最高のナンバーツーといわれたが、ナンバーツーは経験しないでナンバーワンになった高市首相への歴史的評価はどうなるのだろうか。

豊臣秀長(Wikipedia)と高市首相(首相官邸)

戦国地政学から読み解く大和郡山

なお、拙著『地図と閨閥で読み解く 戦国地政学』から大和郡山の歴史地図を掲載しておく。

郡山城下町

また、深田萌絵TVで『八幡先生 VS 宇山(卓栄)先生 戦国地政学の激論』で豊臣秀長など戦国話をしたので、ぜひご視聴を。深田サンは郡山あたりに住んでいたこともあるらしく、大雨になったら金魚池から逃げ出した金魚を子供たちが救って楽しんだといった思い出も披露している。

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