NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」は秀吉・秀長兄弟の物語のはずだが、比重としては弟の小一郎秀長のほうにスポットライトが当たっているので、『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)の内容からその人物像を明らかにしたい。
堺屋太一と菅義偉が注目した「名補佐役」
この人は無名の人ではなく、その晩年は栄光に包まれ、尊敬された偉大な成功者であった。だが、堺屋太一の『豊臣秀長 ― ある補佐役の生涯』(1985年)以前には、彼を主人公にした文学・映像作品は皆無だった。

堺屋太一氏 Wikipediaより
堺屋太一が関心を持った動機は、奈良県御所市がルーツだったからだが、「(武士になったときに)兄の補佐役として労多く功少ない立場に身を置く決心をして、その決断に忠実に人生を生きた」ことに興味を持ったとしている。ただ、理由としては後付けだ。
司馬遼太郎も秀長の売り出しに貢献したが、司馬も母方が御所市の出身だ。
奈良県には大きな殿様はいなかった。鎌倉時代や室町時代には守護が置かれず、興福寺が代わりにその機能を担当した。戦国時代には、松永久秀や筒井順慶が活躍したが、それほどの大大名にはなれなかった。
また、江戸時代には柳沢吉保の子の吉里が15万石で領主となったが、それほどの大大名ではない。そういう意味で、大和・紀伊・和泉の3国で100万石足らずの石高だった秀長は、大和の歴史上、最大の大名だ。

ただ、堺屋太一は創業者ではなく、それを支える補佐役、2代目、組織などに興味を持っており、『豊臣秀長』には彼の問題意識が凝縮されている。菅義偉元首相が官房長官時代に愛読書として挙げて再び話題になった。

菅義偉元首相 自民党HPより
秀長については、『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』でも多く取り上げたが、ここで少し年譜も含めてまとめて人物像を紹介したい。
誕生したのは天文9年(1540年)で、秀吉より3歳年下だ。父親は秀吉と同じ木下弥右衛門なのか、大政所なかが再婚したといわれる筑阿弥なのか、説が拮抗している。私は秀吉の人生の中における弥助の影の薄さからして4人もの子がいたように思えないので、どちらかといえば異父弟説に傾いている。
秀長の名が頻繁に登場するようになるのは、天正5年(1577年)の中国攻めのときからだ。とくに但馬攻略の責任者のような位置づけになった。
但馬は山名氏が出石を中心に山陰支配の本拠地としていたところで、山間部に土豪が盤踞して難しい土地だった。秀長は南部の竹田城を居城にして但馬全体ににらみを利かせた。
竹田城は、豊臣時代末期の城主だった斎村政広(赤松広秀)の手で見事な石垣や天守閣を持つ城に改修され、現代では建物は残らないが、見事な石垣が「天空の城」として人気だ。
本能寺の変の年に死んだ嫡男・与一郎
小牧・長久手の戦いのあと、紀州攻めを指揮し、根来衆や雑賀衆を押さえ込み、和泉と紀伊の統治を任された。
四国攻めは秀吉が病のために直接出馬せず、秀長が指揮を執り、終戦後には大和の支配も任され、郡山城を居城とし、天守閣もある華麗な城にした(のちに伏見指月城に移築された)。
大友宗麟が大坂へ来たときも取次として対応し、「表向きのことは自分、内々のことは千利休が担当する」と宗麟に伝えている。
天正14年(1586年)には、徳川家康が大坂にやってきたが、秀長の屋敷に宿泊している。天正15年(1587年)の九州攻めでは秀吉が西海岸を肥後経由で進んだのに対して、秀長は西海岸を日向経由で進んだ。
天正16年(1588年)に、甥の秀保が養子になった。秀長には与一郎という嫡男がいたが、本能寺の変の年である天正10年(1582年)に夭折した。大河ドラマでは妻の連れ子の扱いになっていたが、実子であろうし、山崎の戦いで戦死したのではなく、おそらく病死だ。
秀長は天正17年(1589年)に有馬温泉に湯治に行ったあたりから体調を崩し、郡山で療養に努め、小田原遠征には加わらず、大政所も郡山城に見舞いに訪れている。秀吉が凱旋してきたときは無理をして上洛したが、それから翌年1月の死まで郡山城で過ごした。
秀長は天正10年(1582年)に美濃守となったのを皮切りに、天正11年(1583年)に侍従、天正12年(1584年)に左近衛少将、天正13年(1585年)に参議、天正14年(1586年)に権中納言、天正15年(1587年)に権大納言となっている。
実務に優れた家臣団と大和100万石級の支配
秀長の死後、秀保が襲封したが、秀保は1595年に17歳で病死した。正室である秀長の娘のその後の消息は不明だ。
死因については、療養に赴いた十津川で近習に断崖から飛び降りろと無理難題を言って無理心中させられたといった都市伝説があるが、麻疹か何かだったようだ。秀長にはもう1人娘があり、毛利秀元の正室となったが、子孫は残していない。
秀長の正妻は大善院と呼ばれ、寧々と同じような織田家家臣の娘だと推定される(神戸秀好という説がある)。「豊臣兄弟」では安藤守就の娘としていたが、創作だ。与一郎の母親であるらしい。秀保の死後の消息は不明だが、豊臣家滅亡の前後まで存命だった。
秀長の家臣は、実務に秀でた者が多い。横浜茂勝、羽田正規、小川祐忠(のちに今治城主)らが治世の中心にあり、桑山重晴は和歌山城主だった。
藤堂高虎は粉河城主であり、普請・築城の名人として知られた。宇多頼忠は石田三成の舅で佐和山落城に殉じた。小堀正次は小堀遠州の父で検地に辣腕を振るった。本多利久は全国でも屈指の山城である高取城の築城者として知られる。
豊臣大名の領地の石高を太閤検地の石高で計算すると、江戸時代の大名の石高より3割ほど少なくなる。
江戸大名の石高は、関ヶ原の戦いのあと厳しい検地をして、幕府との話し合いで決め、そのまま幕末まで使われることが多かった。秀長領の大和、和泉、紀伊は合計75万石くらいだが、江戸時代の感覚でいえば加賀100万石と同じ程度であろう。晩年には伊賀も編入していた。
居城の郡山城は、筒井順慶の居城を引き継いだ。平城京の南西の隅を惣構えに含み、奈良の町と大和の南北を結ぶ街道を丘陵地帯から見下ろす場所であり、大坂や京都、紀伊との連絡もよい場所だ。
また、紀伊統治の拠点として和歌山城を築いた。紀ノ川河口を南から見下ろす台地の先端部の平山城である。
計算高く蓄財にも熱心だったが、公正さは誰もが認めた
性格は温厚謙虚だったと藤堂高虎が言い残している。秀吉は規律に厳しく、抜擢もするが処分も苛烈だった(ただし敗者復活のチャンスを与えた)のに対して、秀長は穏健な方向に誘導してバランスを取った。
また、大和での寺社の統治を見ると、領地を削減する代わりに金子を与えたり、伽藍の復興を援助したり、春日大社の祭礼を維持させる一方で厳しい条件を付けたりした。
甘くはなかったが、裁定が安定し、常識にかなっていたことが、秀長の死後も肯定的に顧みられた。
旧勢力が嫌がる検地を広範に行うことができたのも、公正さが担保されていたからで、家臣たちの理不尽な行動を許さなかった。ただ、郡山の城下の商業を奨励し、奈良の町を抑圧したことは、間接的に興福寺などにとって打撃となった。
郡山城はそれほど贅沢な造りではなかった。石材も古代の遺跡や寺社から運び込んだが、蓄財に熱心で、死去のときには莫大な金銀銅の蓄えがあり、検査にやってきた秀吉の奉行たちを驚かせた。
また、「奈良かし」といわれるように金銭や米を強制的に貸して高い利子を取ったり、兵糧米を他の大名に売りつけたりもした。こうした手法は、江戸時代になっても保科正之のような堅実派の大名が好んだところで、救民でもあるが、実質的な収奪でもあった。
しばしば秀長は朝鮮遠征に反対していたようなことがいわれるが、そのような証言は残っていない。ただ、もし秀長が存命であれば、外交交渉も遠征軍の作戦行動も、より緻密で無駄がないものになったことはありそうだ。文禄の役での兵站を無視した戦線拡大などは、秀長が最も嫌ったものだ。
また、千利休が秀長の死の1か月後に切腹させられたことについては、私は秀長という保護者を失ったというよりは、秀長がいる限りは千利休が増長することはなかったが、秀長がいなくなったことで誰も制御できなくなることを秀吉は恐れたのではないかと推理している。
本来なら、秀長を失ったあとでこそ、千利休は秀吉にとって大事になったはずだ。なお、秀長や千利休が朝鮮出兵に反対したというのは、まったく何の根拠もない虚説だ。
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