しかし、今では後悔している。
何かこう怒りのようなものもこみ上げてきた。この、父の日、母の日なるものは、実に昭和的というか、儀礼的というか、家庭というか男女のあり方に対して無頓着なのではないか、と。別にこの日に感謝しなくても、日常的に感謝していればいいではないか。
なんせ、家庭のあり方に対する配慮が不十分である。父や母を亡くした者、生き別れになった者に対して、この日は残酷である。なかなか子供を授からない夫婦にとっても、だ。結婚して、両親がいて、子供がいて当たり前という価値観を押し付けていないか。家族のあり方の多様化について配慮しているのだろうか。マリッジスルー時代、婚活時代、妊活時代、お一人様時代、恋・愛・性の多様化の時代に対する配慮が足りない。このような立場の者の存在など、歯牙にもかけぬ傲慢な行事である。
もちろん、父親への配慮は必要だ。最新作でも描いたように、働きすぎの問題もある。ただ、これは父の日だから、いつも長時間労働お疲れ様というのではなく、そもそも、この働きすぎ社会をどうするかという視点が大事なのだ。しかも、外で激しく稼ぐ男性像というのも昭和である。
もちろん、「経済効果」なるものもあるのだろう。ただ、その美名のもとで、我々国民の家庭事情が多様化している現状を踏みにじってよいものだろうか。
我々は、いつも昭和と向き合っている。いつも昭和の憧憬のもと、生きている。その連鎖を断ち切るためにも、私は、父の日、母の日廃止論を提案したい。
娘には、父の日、母の日の存在をしばらく伝えないつもりである。我が娘とは21世紀の親子関係を構築したいのだ。
こんな国民への配慮の欠いたイベントに、学生・労働者諸君はもっと怒るべきではないか。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2017年6月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。