私と土肥さんとで「挙手・採決と学校の言論の自由」について押し問答が続いた後で、話は「日の丸」と「君が代」の問題にうつりました。
土肥さんの「個人的には日の丸・君が代を否定している訳ではないが,好き嫌いは個人の自由で、全員が好きでもない『日の丸』や『君が代』の掲揚や斉唱を強制すべきではない。現に東京地裁が「強制は良心の自由を保障した憲法に違反する」と言う判決を下した例もある。」と日教組の主張に結局戻る御話を伺い、この様な身勝手な考えを持つ先生に教育される子供達の将来が心配になってきました。
「日の丸」「君が代」が気に食わないなら反対ばかりせずに、少なくとも「どのようなものが望ましいか」を具体的に示し、国民に信を問う事から始めるべきではないでしょうか?
国民が国旗や国歌への忠誠を誓うのは世界の常識で、多くの国では国旗や国家への侮辱、破壊行為を法律で禁止しているほどです。それに対してわが国では、外国の国旗に対する侮辱行為は禁止していても、日の丸の尊厳に関しては何も規定が無い事の方が問題です。
教育公務員が例外であればいざ知らず、日本で公務員になる為には「全体の奉仕者として日本国憲法を遵守し、法令及び上司の職務上の命令に従い職務の遂行に当たることをかたく誓います。」と言う趣旨の宣誓書への署名が義務付けられている筈です。自由意志で署名した宣誓書を無視して、気に食わない職務命令には従わないと言う教師に、厳罰を課すのは当然でしょう。
それにも拘らず「公務員を棒に振ってまで宣誓を拒否するなど、とてもできる空気ではなかった」等の言い訳をするとしたら「思想や良心の自由」と言う重大な問題を持ち出して職務を放棄して抵抗する資格はありません。
民主主義は、一般社会の約束事に則って必要とされる手順を踏む(デュープロセス)を前提に成り立っている社会です。日教組は「個人主義」と我侭放題の「勝手主義」を混同しているのではないでしょうか?
公務員とは言え、一市民としての基本的人権は保障されるべきで、公務から離れて個人として「日の丸」「君が代」反対運動に参加されるのであれば私も反対は致しません。
土肥さんのグループは、都教委が「日の丸・君が代に反対すること」を禁止したと解釈していますが、通達内容を見る限り「反対する事」を禁止したのではなく、法律や職務上の命令に反する行為を禁止したに過ぎません。職務を放棄して、個人の考えを教室に持ち込む行動は「個人主義と勝手主義」「自由と我侭」を混同した思想の混乱です。
基本的人権保護を謳った修正10条を、憲法の冒頭に掲げるほど基本的人権に厳しい米国であっても、正式行事が始まる前には殆どの場合、国旗規則に従った姿勢で「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います」と言う忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)を暗誦するのが伝統になっています。これは、日本とは事情の異なる移民国である事を考慮しても、忘れてはならない事実だと思います。
テロ社会を迎えた今日、海外で誘拐された場合の被害者本人は勿論、その家族にとっても頼りになるのは母国であり、その象徴である日の丸をつけた車両が近ずくのを見て「救われた!」と喜びの声を挙げた誘拐被害者は沢山居た筈です。「君が代」の「君」を「我が国」と解釈すれば「君が代」ほど日本の救援隊に救われた時の被害者の母国をいとおしむ気持ちを上手く表す国歌を見つける事は至難の業です。
何事にも象徴が必要です。日教組は「日の丸・君が代は、かって日本の支配者・権力者が侵略戦争を鼓舞する為に使った象徴で、再び戦争を起さないためにもこの象徴の使用を禁止する行動をしなければならない」と独りよがりな根拠で「日の丸」「君が代」に反対しますが、これは「日の丸」「君が代」は日本が軍国主義に走る以前か存在した歴史的事実を無視するだけでなく、自分の意志も持たず軍国主義者に利用された被害者の「日の丸」「君が代」を非難する余りにも的外れな主張です。
土肥さんの議論を聞いているうちに、冷静に論議されるべき「日の丸」「君が代」問題が、左右のドグマに分かれて感情的な怒号の対象となっている現状を大変残念に思いました。ドグマ以前に、この問題を子供の福祉も考えた常識的な観点から対話が出来る日は何時来るのでしょう?
ニューヨークにて 北村隆司
コメント
高校の歴史教師が、「そう」でした。
君が代斉唱の時は、じっと、椅子に座ったままで
おりました。
左翼に限らず、右翼もそうなのですが、
僕は問いたい。
「何故、やる事が決まっているのですか?」と。
大よそ思想なるものは、今まで誰も考えなかった
事を、無い知恵を絞って、作り上げるものではないのか。
何故、まるで検品の項目のように、
一日百年のように決まりきっているのか。
いや、正に検品のように思想をしているのでしょう。
思想も大量生産、標準化の時代、
まるで面白くない。
これは、いわゆる「不良生徒」の言質もそうであるのですが。
この >>全員が好きでもない『日の丸』や『君が代』の掲揚や斉唱を強制すべきではない。
って言うのが歯切れが良くない。
『日の丸』や『君が代』の部分を、「学校」や「ラジオ体操」に置き換えても、あまり変わらないかな。
過去はどうあれ、今の日本は「世界に良い影響を与えていると思う国」でドイツに次いで2位の評価を貰ってるんですよ。
日の丸を軍国主義の象徴でなく、戦後の平和貢献や憲法九条に結びつければ、彼らの反抗も無意味になる。
国歌斉唱なんて人生で幾つもある退屈な儀式のひとつ。上司の説教や親戚の集まりの時のように時間が過ぎるのを待ってればいいんじゃないんですかね。
僕が思うのは、税金で遊んでんじゃねーよって事ですよ。
日の丸や君が代を、強制したがる精神について
国家というものは、個人にとって良いことばかりをするものでは
ありません。盲信はすべきでないでしょう。
場合によっては、政策を誤り、甚大な被害を及ぼすこともあります。
一部の地域を犠牲にすることもあります。
過去においても、そして現在も
そうした被害を受けた人々や、犠牲となっている地域の人々、
迫害されてきた民族。これらの人々やその子供達、彼らの
心情に共感する人々にとって、
国家を象徴する国旗や国歌に抵抗を感じるのは当然でしょう。
その感情を表すことを認めないとすれば、それは横暴と
いうものです。抵抗の感情を押し殺して、全体に従えという
ことでしょうから。
日の丸や君が代に愛着を持つ人の「素直な」心情は理解できま
すが、そうでない人の心情を理解できないというのではいけません。
国家に対する心情は、複雑であってよいのです。
また、国家は権力を有します。その権力は、その時代の人間が
行使するものであり、権力の側の人間は、その権力を行使する
ことで自分達に反対する勢力を排除することも可能です。
さらに、よく言われることですが権力は腐敗します。
人間がやることですから、当然でしょう。
日の丸や君が代が、ほかの何かに変わったとしても(緑の山河でも)
権力者が、よく利用するものに対して距離を置こうというのは
妥当な姿勢です。
また、教員については全体の奉仕者なわけですから、日の丸や
君が代に反対する人々を擁護することも妥当でしょう。同時に賛成
する人も擁護していなければ、どうかしていますが。
北村氏は、日の丸や君が代は利用されただけといわれますが、
それはそうでしょう。では、どうやって?それを推奨し、ついには強制することでです。
国旗や国歌については、強制することなく、それぞれの態度と
その背景となる思想や感情について考えることが重要なのでは
ないでしょうか?それは、自国の歴史や国家というシステムを
考えるよい機会となるはずです。
当然、日の丸を揚げさせない、君が代を歌わせないという人々に
私は賛同しません。強制する人々と、大差ないからです。
国家というものは、ややもすると個人の存在を見えなくしてしまう
ものです。しかし、生きているのは個人です。そこにこそ、大切な
ものがあると思うのです。だからこそ、個人は大切にされなければ
なりません。それが、民主主義の基本ではないでしょうか?
北村さんの論理に全く異論はないけれど、土肥氏のような、およそ出鱈目の論理で困り果てたり、病気になったり、挙句は広島の世羅高校の校長のように自殺に追い込まれるような、孤独の闘いをしている人が結構おられるようです。
日教組の出鱈目の論理は論破しても、それに従わなずシュプレヒコールと同じ言葉の繰り返しですから、対応する人は大変です。その頭目の1人が、参議院の輿石議員ですが、この組織の性質は悪いです。
実際に、外国でスポーツの選手団が他国の国旗掲揚の際に仲間と雑談をしたり笑ったりしていて、抗議を受けたり注意を受けたりという例が沢山あるようです。だって、国旗・国歌に敬意を払う訓練を受けてないですし、それを悪い教育だと指弾する人も少ない。抗議する人は軍国主義者だと日教組は言ってるようですから、日教組は抗議を意にも介していないのかも知れませんが。
このグローバル化の時代に世界の常識ぐらい教えられる教育でないと、何のための教育かと思いますね。
日教組の先生方が反対する根拠は、マルクス主義でしょうね。自分たち「プロレタリアート」から見ると国旗・国歌は「ブルジョワ」の象徴であり、倒すべき体制派なんです。「軍国主義」への加担はあくまで、口実にすぎません。このような集団には断固とした罰を加えるべきです。
「国民が国旗や国歌への忠誠を誓うのは世界の常識」って本当なのでしょうか。米国に住んでみてPledge of Allegianceその他にビックリするのは,私以外にも,欧州から来ている人の何人かが言っています。詳しく調べたわけではありませんが,南米やアフリカなど建国間もない国々では忠誠が常識かもしれませんが,欧州(の少なくとも一部)では常識ではないということはありませんか? 少なくともPledge of Allegianceは,特殊に見えると思いますし,ドイツなどでは国旗自体が日本と同様の問題を抱えていると聞きます。
私は小学生の頃、ご飯に梅干を乗せて日の丸弁当を作ったら、担任の教師に怒鳴られ、やめさせられました。
また卒業式では君が代を歌わせてもらえませんでした。
強制強制と言いますが、強制しているのはどちらなんでしょうか?
以前ある高校で、卒業生の答辞で、
日の丸・君が代を教師達に禁止されたことを批判するコメントを発した生徒
がいましたが、あまり大々的には報道されませんでしたね。
会社に行って社歌などを歌わせられることはあります。
会社への忠誠心が低く、気が進まない時は、私は小声で歌うようにしています。
強制されたと言って騒ぐ気は毛頭ありません。
給料を貰うために選択して職業に就いているからです。
むしろこちらの権利を侵害された感覚が強いのは、
義務教育である小学校の頃の日の丸・君が代禁止の方でした。
子供にとって、学校や学校の先生の権力というのは非常に大きいものです。
国家権力でなければいくら強制しても合法、というのでは、
あまりに左翼系団体、知識人に都合のいい法であるとしか言いようがありません。
他国の子供達が自国を誇って国旗や国歌を愛する権利があるのに、
日本の子供達だけそれを否定されるのは、大いなる権利侵害です。
wishborn2400さん
全員を納得させるとしたら、日教組系の学校と普通校に分けて生徒はどちらかを選択する。
もしくは集会や卒業式だけ時間をずらして行うか。出来るできないかは別として、もうそれぐらいしか解決法はないでしょう。
外国人なら当然、外国人学校があるし、金に余裕があるならインターナショナルスクールもある。
国家掲揚が有るか無いかで学校を選ぶ人はかなり少数派でしょうが。
でもいい加減、国や国旗だけで戦争や平和を考えるのは卒業しようとは考えないんですかね。
現代の戦争は、米・NATOvsイスラム原理主義勢力やメキシコの麻薬戦争など国家を超えたイデオロギーや、金、混沌を望む人が引き起こしてると思いますけど。(イスラエルは別として)
日本の教育と外の世界は、実は全くリンクしてないって考えるとこの問題もどうでもいいか・・・
「世界の常識」、「常識的な観点から」という言葉に引っかかりました。決まりきったこととおっしゃってるようで。論者が相手方に対して述べていた頑固という言葉と共通するものを感じます。
世界各国では国、国家、国旗に対してそれぞれ多様な意見が存在し論議されています。法律を決めているからと言って結論が出ているわけではないはずです。それをわすれてはいけないと思います。
「『戦争の象徴』が独善的」というのは独善的な意見に感じました。日の丸を抱いて戦死されたりそれを見送った私たち日本人の民族の歴史は忘れないほうがいいように思います。この記憶自体が私たちの歴史文化の一部ですから。
この一文は結局、公務員は国旗、国歌の規定に従えということでそれには世界の常識だから深い理由はない、と読めました。
とはいえ日教組的な教育、コメントにあるようなくだらない左翼的強制にはわたしも反対です。言行一致を期待したい。
「なんで先生は歌わないの?」と生徒が聞いて、それはねと先生が歴史を説明するようなことはあっていいと思います。教育者を単なる公務員に貶めてはいけないと思います。
こと日教組的なものへの反発心って強いですよね。
ここの書き込みでも実体験として書いている人も少なくないですね。
つまり、運動としてうまくいっていないとも言えますよね。
すでに動員力として見るべきものがあるように思えないです。
こういうイデオローグ的な動員は本当に力を失ったと思う。
結局のところ
面従腹背っていうか、何をどう強制しようが適当にやり過ごされるだけのことだと思います。
多くの「どーでもいい」層にとっては、北村氏の意見も校長氏の意見も向こうのお座敷の話になっているのではないでしょうか?
かくいう私も、国旗や国歌に特別な思いはないですね。明日から変わりますと言われても、はいそ~ですかと言うレベル。
wishborn2400 さん
あなたの根本的間違いは、国家と国民は対立するものではなくて、あなた方が選んでいる人が統治しているということです。最大多数の人達の意向で動いているわけで、最大多数に属していないあなたの意向には従っていないかもしれません。
国という表現は、別個のものが存在しているようですが、日本国籍を持つ人全体を指しているわけで、その全体の利益を高めるように個々人が活動することは当然のことです。
少数意見の人は、多数意見の人に従うのが民主主義なのですから、それが不満ならどこか自分の好きな国に行けばよいのではないでしょうか。
国旗・国歌に敬意を表するのは世界の常識です。それは、人と会ったら、挨拶しましょうと言うレベルの話です。その習慣を児童につけない教育は、価値を損ないます。そういうことを教師が先導してやることが間違いであることぐらい分からないのでしょうか。
あなたの理屈は、土肥氏と同じで、個人の思想の自由を、公務員の職務遂行における職務命令遵守にまで混同しているだけで、北村氏の投稿を再度よく読まれることをおすすめします。
wishborn2400氏はまさに土肥氏と同じ過ちを犯していますね。
国旗・国歌を強制しているのではなく、単に職務遂行を強制しているだけです。日本には職業選択の自由があり、国旗・国歌と関わらない仕事がいくらでもあります。国旗・国歌と関わりたくないのであれば、公立学校の教師になどならなければいいだけです。自分で公立学校の教師になることを選択しておきながら「国旗・国歌の強制を止めろ」等と言うのはただの我が儘に過ぎません。
生きる・死ぬの権利は自由でしょうか。ただの我侭でしょうか。では生きることは職業に付くこととは関係ないでしょうか。
「日の丸・君が代は、かって日本の支配者・権力者が侵略戦争を鼓舞する為に使った象徴で、再び戦争を起さないためにもこの象徴の使用を禁止する行動をしなければならない」
象徴とは現実の様々なテキストを、単に一つに
表象させたものです。
我々が星条旗を見て、おのおのが色々に思うように、
日の丸・君が代に対しても、色々に思うでしょう。
ここの記事/コメントでも、忠誠を感じる方、何とも思わない方、
忸怩たる思いの方、様々ですよね。
象徴とは、「かように思わなければならない/思う筈だ」
という制作者の意図が実現されるものではない。
また、一部の閲覧者によって決められるものでもない。
引用した日教組理論は、記号論から考えても的外れであり、
また傲慢なものです。
軍極主義を批判しておきながら、
一意の解釈を、押し付けようとしているのですから。
その主張そのものより、こういう表象/記号に対する
見識の甘さに、恐怖を感じます。
はんてふ さん
分からんことを言いますね。
先の戦争を鼓舞したのは、日の丸と君が代だけなのですか。日本語が一番鼓舞したのですから、日本語を禁止になぜしないのですか。日本と言う国号も鼓舞したのだから変えるべきでしょう。大和、武蔵、榛名、全て鼓舞する名前でしたから禁止したらどうですか。言葉こそ一番の記号です。
あの、戦争の悲惨を味わった沖縄の人達が、米国の統治下にある時代に、祖国復帰で掲げたのは日の丸でした。祖国を奪われた人にとって、日の丸は戦争の記号ではなく、民族の記号だったのです。あなたの認識が間違っているだけです。
感じ方が様々だと言いますが、日の丸、君が代が日本国の国旗国歌としてふさわしいとする人の数は、80%を超えています。比率を考えて言うべきです。また、日の丸君が代がふさわしいと言う方々を含めて、この国にふさわしい国旗国歌の代替案を示してから言うべき言葉です。
代替案なしに言うのは、統合のシンボルを失くして、意識を発散したい意図丸出しです。右左両方に苦言を呈して中立を装ってますが、サヨクの思想そのものですね。
国旗・国歌の強制を生徒にしたなら、明らかに憲法違反です。そうした行為を職務命令だからというそれだけで、教師に強制するのは教育上非常に問題が多いと言うべきです。教育では、様々な考えを持つ人がいることを教え、少数であっても尊重することを教えることが重要です。
日の丸君が代自体が悪いのではなく、多数の考えが少数派の考えを抑圧することが問題なのです。日教組のかたくなさも問題が大きいと思いますが、個人と国家のあり方について、他国はこうだからという論理にたよらず、根本的なところから、どうあるべきかを考えれば自ずと答えは出るものと思います。
いろいろと私への意見を頂いてますので、簡潔に。
srx600_2さん、私は全員が納得することなど企図していません。
それを求めているのは、むしろ強制しようとするひとたちでは?
具体的に何がどうなるというわけでもないことすら容認できない
ような人間には、「全体」を考えることなど出来ないでしょう。
kakusei39 さん、民主主義は完全ではありません。
特に民主的な人々によって運営されていない場合にはね。
彼らは自分のいいようにルールを作り変えることも出来ます、
ゲリマンダーなどはよい例です。
何かを選択していかなければならないにしても、それは全体を
考えた結果でなくてはなりません。
最大多数の人々がわがままであれば、彼らが選ぶ代表も
わがままでしょう。多数に属するというだけで、少数を無視する
ことを正当化することなど出来はしません。
多数決は、それだけで民主主義をもたらすものではないのです。
あなたの民主主義では、常識や慣習としての差別は否定されえ
ませんよ。常識よりも、人を大切にしましょう。
bobbob1978 国旗や国歌というものが、職務だからというような
矮小化された思考の対象であるならば、そんなものはやめて
しまえばよいのです。そこには、国家と国民との複雑な関係が
あり、だからこそ重要なのです。尊ぶにしても、忌避するにしても。
日の丸や君が代を強制したい人達に見られるのは、自分の考え
に反するものと共存できない、偏狭な貧しい心です。
それは、日の丸や君が代を奪おうとする人たちにも共通しているの
ではないでしょうか。
なんだか、コメント欄の考え方が難しくなってきているようですが、その前に目の前の
「サッカー日本代表が肩を組んで日の丸を歌う」
のをどう理解されているのでしょうか?いわゆるコメンテーターさまを含め、誰もコメントしませんが・・・
もし、国民の多くがその姿に感動していたら、この風景、卒業式の今後のトレンドになったりするかもしれませんよ!!
個人的な真っ先な感想は「『戦後』も終わったんだろうね」です。
(いい、悪い、好ましい、好ましくない、は一応ありますが荒れそうなので敢えて書きません。)
haha8haさんが感じられているように、本当は難しいことが
目先の「感動」や、思想のない「常識」もしくは、強制によって
その意味を考えられなくなっていることが問題なのですよ。
純粋な心、素朴な感情といえば聞こえはよいのですが、
それらを難しい問題(それは「戦後」かもしれない、沖縄かも
しれない、、民主主義かもしれない、その他の問題かも)
を直視しないための、言い訳にしようというなら、
それは別の言葉で表現する方が適切でしょう。
難しいことも考えましょう。たしかに面倒なことですがね。
でないと、日の丸のついた格好で渋谷で騒ぐ連中みたいに
なりかねません。彼らが回りの迷惑を考えて、あれをやっている
とは思えませんからね。
日の丸は梅干し弁当みたいで、とてもシンプルで良いと思う。
しかし、君が代はあまりよろしくない。
明治時代の素人の音楽家が作った出来の悪い歌だ。
日本語の抑揚がチグハグな音痴の人のための歌だ。
現代の優れた作詞作曲家なら、ずっと出来の良い歌を作るであろう。
国歌というものは、競技場に出陣する、
プロレスラーの入場歌のようなものであるから、
カッコ良くなければならない。
さあ、これから戦うぞ!といって、みんなで興奮するのが主機能である。
しかるに、君が代ときたら、
君の世界は、ミイラになって化石になって、とうとう苔が生えてしまった。
といったようなような類の、湿っぽい敗戦歌だ。
葬式にでも流すのに向いている。
日本人は、ろくでもない奇奇怪怪なる伝統を後生大事にして、
改革に見向きもしない国民であるから、お似合いの国歌ではあります。
lunatic_memoryさん
そうですね久石譲や菅野よう子にアレンジして貰えればカッコ良くなるのは間違いない。
wishborn2400 さん
あなたの言う、日の丸を強制しない且つ取り上げもしないと言う論理を学校で適用させるには実際そうするんですか?
そこの運用の話を具体的に議論しないと、全然話が進まないんですよ。
それとW杯のお祭り騒ぎはこの議論とは関係ないです。
1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した。(ウィキペディアより)
21. lunatic_memoryさん
君が代は世界に認められた荘厳な調べを持つ優れた国歌だと思います。確かにイギリスの軍楽家による編曲で、西洋12音階に当てはめられておりますが、オリジナルは雅楽の和音階の調べです。雅やかで、重厚で、短い調べの中に日本的な抑揚がとても自然に表現されていると思います。
最後の「こーけーのぉ~むーうーすーうーまーああでぇ~」の部分。
武道で勝負が付いたあと、お互いが再度正対し、お辞儀をするような、そんな、控えめでありながら、しかしとても格調の高い、美しい調べだと思いませんか?
srx600_2 さん、きちんと読んでいますか?
相手の話を聞くことが出来ないというのでは困ります。
私は、強制することを批判していますが、同時に掲揚させない
うたわせないようにすることも批判していますよ。
なぜ、こうも黒と白というような解釈をされることが多いのか
非常に疑問です。また、強制するか、しないかの二者択一な
選択肢になるのでしょう。
双方への配慮の仕方を考えるということが、最初から抜け落ちて
いるかのようです。全国で画一的な手法をとらなければならない
ということもないのですよ。
W杯の迷惑な騒ぎ方の話は、純粋な気持ちや素直な気持ち
というものが、人のことを考えないことの免罪符にはならない
ということの事例ですよ。それは、国旗・国歌に対する気持ちに
ついても同じことです。
それに日の丸や君が代に取り立ててどうこう言うほどの
規範意識を高める効果がないこともわかりますね。
申し訳ありません。
24番目の6行目ですが、強制するか、完全に排除するかの
二者択一の間違いです。編集中に削ってしまいました。
訂正させていただきます。
私は明確に強制しないことを支持していますので、これでは
いけませんね。すいません。
izumihigashiさん、一等賞はともかくとして軍歌調だったり、
どっかぶっ潰せ的なものよりは、今の感じはよいと思います。
srx600_2さんの推奨される方、菅野よう子さんなどは
君が代の曲調のイメージには合いそうなんですけどね。
月の繭などは、実に美しい。
> wishborn2400 さん
頑張ってコメントされていますね。私もあいまいに終わらせてもいけないと思ってきましたので、コメントします。
「肩をくんで君が代を歌う」
まるで大学の校歌みたいな扱いですが・・・
反面、実は評価しています。国の代表とか背負って硬い表情してるとか、逆に今風の「俺さまマイウェイ」するくらいならこっちのほうがいいです。
全員やるだけやろうぜと確かめ合うわけですね。一試合見た限りでは全員歌っていました。
勢いのいい国家だと調子に乗りすぎてしまいそうですが、君が代ならそんな気持ちにならない、海外にもクールガイに映っていると思います。
ついでで原宿ですが、それだけ盛り上がれるのなら、深夜か早朝だし、いっそ歩行者天国にしてしまえばいいのに、人間、なにかにとりつかれて無茶するのも経験だと思います。
(だからといってヤレといっているわけではありません。肯定2割・否定8割くらいです。)
「君が代」は、どう聞いても「祝詞」だと思う。
歌詞どうり、苔むしている。
自治体・市民公式行事や学校行事用の第二国歌とか、
制定しないのは何故なんですかね?
よっぽどの呪術的効力があるんですか?
コメント欄の発言に意見をいただけるのは、大変光栄なことです
ので。出来るだけ対応をと思っています。
渋谷での騒ぎについてなのですが、公園だとか、時間だとか、
ある程度の規制を決めておくというのもよいかもしれないのですが、
彼らに「愛国無罪」的なノリがあるような気がするのが、ひっかかり
ます。マスコミもそれに対して批判的ではないように思えます。
マッチポンプな状況がつくられてはいないでしょうか?
北村さんは、「国民が国旗や国歌への忠誠を誓うのは世界の常識」と書いておられますが、一方で、卒業式で国歌を歌うのは世界的に見て少数派です。各国の国歌の扱いは文科省のHPに記載があったと記憶しています。このブログで問題視しているのは、卒業式での国旗国歌の扱いだと思いますので、付け加えておきます。
kakusei39さん
名誉回復のために。
このエントリーには最後のコメントになります。
>代替案なしに言うのは、統合のシンボルを失くして、意識を発散したい意図丸出しです。右左両方に苦言を呈して中立を装ってますが、サヨクの思想そのものですね。
記号論=統合の非象徴化=サヨク
こういう硬直的な発想が、国家/国旗の議論を狭めて
いるのですよ。こういう感情的な反論が来るから、
横断的な知見で援護する事が難しくなっている。
私の論調は、「記号」に対する知見から、他の論者の方と
同じように、「何れにせよ強制されるべきものではない」
と書いているんですから。それが文脈でしょう?
賛成なのに代替案をどうして出す必要がある?
つまり民主主義なり国家なりの観点でなくても、
「記号への認識の強制」を憂いているわけです。
「民族の記号」=「表現」である事は否定しませんよ。
それは、結局は他の論にも繋がるくらいの深度しかない、
他愛のない戯言に、罵倒語としての「サヨク」を見出すのは
実に無礼な方ですね。
私は地域の体育部にも青年会にも協力してますよ。
売国奴扱いされるのは実に心外です。
「赤狩り」ですね全く。だから普通の人が怯えて、
コメントできなくなっているんですよ!
それをあなたは猛省すべきだ!!
撃っているのは味方なんですよ。
それを知りなさい。
とりあえず、信長公記か甲陽軍艦でもお読みになっては?
それかユーザビリティでも勉強して下さい。
愛国心に衒いがあったっていいでしょうが。プンスカ!
代替案が無いのはおかしい、という批判に対する批判をします。
私は国旗国歌に対して敬意を払う事は国に対して責任を負う事だと考えています。それに従うなら国旗国歌への批判は、それが敬意を払うのに適当な記号でないという場合しか受け付ける事が出来ません。そこに代替案を示すことが出来ないのは責任を逃れたい人でしょう。
それにこの国は民主主義の国です。国に敬意を払うことを強制する事は間違いだけれど、自らそれをしない事はもっと間違っている。
jajamataさんの言い分はちょっとよくわからないですね。
国旗国歌に対して敬意を払う事は国に対して責任を負う事という
のは何なのでしょう。
どこからこういうことが出てくるのかわかりません。
個人でそういう信念をもたれるのはかまわないのですが、
それを一般的な前提とするのは無理がありますよ。
そのもっと間違っているということをしたところで、取り立てて
何か具体的に困ったことが生じるわけでもないでしょうし。
自分が何かを正しいと思っている、考えているということと、
実際にそれが正しいか、正しいとして、それだけが正しいのか
は別の話ですしね。
国旗国家について強制は良くないという方は、他のあらゆる場面で緩やかな同調が求められるシーンにおいても『強制は良くない!』なんて喚くのでしょうか?そんな事はないと思います。人間、普通に暮らしていれば、緩やかながら同調を求められる事は日常茶飯事です。そしてそれに嫌な顔せず普通に従い、何の不満も感じないものです。国旗国歌の強制とか、殆ど感じない人にとって見れば、国旗掲揚、国歌斉唱は何の抵抗も感じません。感じる事は悪い事だとは言いません。抵抗感を感じる人の思想信条は大切にしなければならないと思います。思いますが、ここで改めて強調したい事は次の通り。
国旗国歌の強制に反対する人は、特定の思想信条の持ち主である。(それが悪いと申している訳ではありませんので念のため)その特定の思想信条とは、日本の伝統(戦前の日本と現在の日本との繋がり)を否定したい人々。反日思想の持ち主である事。だからハッキリして欲しいのは、強制が良くないなんて一般論で国旗国歌を否定するのではなくて、堂々と、「私は日本の伝統が嫌いです。だから国旗も国歌も嫌いです。国旗国歌を愛する人々も嫌いです。だから私に強制しないで下さい。」こう宣言してください。
wishbornさん
敬意を払うことやその行為が儀式的な意味で責任を負うことの証明だと言うことです。それが出来ない人の言うことを信用することは出来ません。私はこれが同じ土俵に立つための前提と考えています。
質問ですが、国歌に対して責任を負う事が必要だということは理解していますか?
>国旗国歌の強制に反対する人は、特定の思想信条の持ち主である。
それを「赤狩り」というのです。
はっきりさせておきますが、あなたが決めた「こうあるべき国家」に私は従うつもりはありません。
私が思う「こうあるべき国家」「存在論的な国家」には
従いますけどね。
「特定の思想信条の持ち主」が提示する「あるべき国家」
に強制する事=not愛国心です。
それを理解しなさい。
izumihigashi さん、大切にしようということならそんな宣言などさせる
必要はないでしょう。国旗国歌を愛する人が嫌いかどうかなぞ
関係ありませんし。どこからそういう設定をなされたのか疑問です。
日の丸や君が代が日本という国家の伝統全体を象徴しているのだと
考えるのは自由ですが、別にそうでもありません。
jajamataさん、何も証明されておられませんのでなんとも。
紙幅の問題があるのかもしれませんが。
また、国歌に対して何の責任があるのか、全く不明です。
国歌を歌わなくてもなんということはありませんし、
歌わなかったとして具体的に何か問題が生じることもありません。
あるとすれば、強制したい人が嫌がらせをするくらいのことでしょう。
はんてふさん、理解しなさいというのはちょっとどうかと。
穏やかに議論しましょう。
国旗や国歌を自明な記号として利用しようとする人にとっては、
あなたは記号の意味を揺り動かそうという存在なわけですから、
すんなりと理解されないほうが自然ですよ。
現代思想などを好まれる方なのでしょうか?
記号という構築物を揺り動かすことによって、記号との生き生きと
した関係を取り戻そうとされているとか。
しかし、あまり存在論などの一般的でない用語は使わないほうが
議論がわかりやすくなるように思いますよ。
wishborn2400さん
「存在論的な国家」は、制度・機能・装置としての
国家、と書いた方が宜しかったかな。
卒業式などでの国旗/国家は、儀礼的なものなので、
これに該当させたいです。
で、そういうエントリー記事であった筈なんですけど、
「我らの国家論に従うべし、さもなくば売国奴だ」
というような論調の方が出てきたのでヒートアップ
してしまいました。
国家論がそのまま記号への解釈に反映されるわけで、
仰る通り、”すんなりと理解されない”事になって
しまっていますわな。
「あるべき国家」を啓蒙したい方々というのは居るわけで
あってね・・・。故に記号の多様な解釈は、敵に思われて
しまう。悲しい事です。
コメントありがとう。
国歌=君が代。国旗=日の丸。
一度でも海外に生活するなら、この二つの記号に、大きな意味と存在感を見出すことだろう。
君が代と日の丸に意味を見出さない人は、おそらくは、一生をこの国の中の生活しか知らないのではないか。そして、自分のアイデンティティが、国家という枠組みで守られ、育まれていることを、無償で享受しながら、その恵みに感謝できない、自分勝手な「甘えん坊」である。
海外で政変や戒厳令になったら、帰国を助けてくれるのは、日本の大使館や領事館、そして自衛隊の航空機、艦船であろう。また、日本の領海でSOSを発する者を助けるのは、日の丸を記章とする海の警察権力である海上保安庁である。
たとえ、国家の政権の政策に反対であっても、ゆえに国歌と国旗を踏みにじってもよいと考えるのは、単なる世間知らずの「甘えん坊」の言い草である。
結論は、自国の国歌、国旗に嫌悪感を持つ者の多くは、日本の戦後の「日教組愚民教育」により強烈に洗脳されてしまっている「過保護人間お坊ちゃま」のなれの果てである。
>自国の国歌、国旗に嫌悪感を持つ者の多くは、日本の戦後の「日教組愚民教育」により強烈に洗脳されてしまっている「過保護人間お坊ちゃま」のなれの果てである。
私はこの「物語」自体に懐疑的です。
「制度・機能としての国家への感謝」、という話が、
何時の間にか、「我々の提示する国家論への服属」という
話になっていませんか?
その辺の曖昧さが、「我々以外は洗脳されている」という
陰謀論めいた話になってくると思うんですよね。
「あるべき国家とは何か」というのを議論するのが
大事だと思うんです。
あまり指摘はしたくないですが、少し毛並みの違う国家論
を目にしただけで、「左翼的」と罵倒するのは少し
神経質すぎやしないでしょうかね?
普通の人は働いているわけで、それだけでも「制度・機能
としての国家」を支えているわけなんですから。
「あるべき国家は一つ」と主張されたい気持ちも理解でき
ますが、「制度・機能としての国家の解体を目的とした
あるべき国家」を語っている「左翼」は、例えば具体的には
誰なんですか?そういうのは「左翼」ではなくて
アナーキストか左派リバタリアンだと思うんですよ。
38. fromkazenotayori
3年ほど海外にいましたが、国家や君が代に思い入れなんてありません。
日教組の思想は全く受け入れられるものではありませんが、
国歌と国旗を有難がれと言われることにも共感できません。
国歌が好きでなければ「過保護人間お坊ちゃま」ですか?
この手のステレオタイプな発想はもう通用しない時代かと思います。
ちなみに私は日本の国旗はデザイン的にも好きです。
国歌は曲調も無理やりで歌詞もひどいものなので、
もっと良いものにしてもよいと思っています。
fromkazenotayoriさん、国家は無原資で運営されているわけでは
ありません。主に我々が支払う税金で運営されています。
あなたの言う国家の機関も税金で運営されています。無償では
ありません。
税負担が小さい方なのかもしれませんが、それでも消費税などは
負担されているわけですから、ほとんどの個人に状況を限定する
にしても無償ということは事実関係として間違っています。
(担税力云々は紙幅がありますので割愛しますが)
どこから、勝手にお金が出てくるわけではありません。
国旗や国家に対する態度と、納税の意思との関係は不明ですし、
納税の義務が無くなるわけもありません。
世間知らずといわれるには、正直ちょっとどうかと思う内容ですよ。
経済感覚について、もう少し考えていただければ。
それと国家について、よい面しか考えないというのでは、むしろ
何か洗脳されているのではという心配になります。
また、国旗や国歌を踏みにじることを私は肯定しませんが、
強制しようとしている人たちの心情は、強制を拒む人の心情を
踏みにじるものです、私はそれも肯定しません。
完全排除しようとする人たちについても同様です。
非正規雇用の人達は社歌を歌えと言われたら歌うでしょう。正社員になれるとしたら何十回でも歌うでしょう。国歌を歌えば公務員になれるならそれこそ必死に何百回でも歌います。正社員の公務員の人達は当然国歌を歌うのを前提として公務員になったはずです。それを断るなら職を辞して断っていただきたいと思うのが一民間人の率直な気持ちです。我々の税金でぬくぬくと食っているくせに,個人的な思想信条を持ち込んで,屁理屈垂れて歌わないなら,個人に戻ってから言ってください。
>それを断るなら職を辞して断っていただきたいと思うのが一民間人の率直な気持ちです。
やっと議論が原点に戻りました。
アゴラでも議論になります、「国家資本主義」などへの服属と
公務員の組織=「国家」への服属は別物なんだと
思います。
公務員=教師における「国家」は、ご指摘の通り、
レベルは「会社」と変わらないわけなのであります。
なので、この話題において、国家論というのはあまり
意味を為さない。jitさんのご指摘で充分です。
日本民族の伝統文化と、西欧列強の傀儡政権にすぎなかった明治政府。そして、西洋列強に操られて東アジアに侵出したという過去は反省すべき。
しかし、そういう日本人の自省的な精神を日本の戦後教育を操る占領軍の人たちが利用して、自虐史観を捏造し、日本民族の自立を崩壊させようとしている。その結果が、君が代・日の丸論議だということに、そろそろ気がつくべき時が来ていると感じています。
北村さんが学ばれた大学のアカデミズムは官学でしかなく、国家の社会体制を是認・遂行するためにつくれらたご都合主義の集合体であることを認識すべきです。
ウェブ空間の意味は、そのような官学にすぎないアカデミズムを相対化することによって、真実を見つけ出すことです。
日本人にとって、日本人は何かを考えることよりも、アメリカ・イスラム・ロシアなど多様な価値観の中で、いかに自分達がアメリカ的な価値観を刷り込まれているか。そのことに思いをいたすことが重要であり、君が代・日の丸を取り立てて取り上げることは浅薄です。
と申しますのも、君が代・日の丸復興案に乗じて、アメリカ的な価値観を教化しようとする勢力が、現代日本において存在するからです。
jit19850726131431さん、あまり議論をしたことのないひとに
よくあるミスなのですが、たとえ話はどこまでいってもたとえ話です。
仕組みの説明などで、たとえ話を使うのは有益ですが、何かを議論
している場合には、すり替えになってしまいます。
国家は会社ではありませんので、残念ですが、最初から
考え直すことをお勧めします。
それと、自分が当然だと思っていることが、実際に当然であるかは
少し考えた方がいいですよ。当然であると言えば、当然になるという
ものでもありません。
もう一つよく考えて欲しいのが、会社であっても経営者と従業員の
ほかに顧客や消費者との関係があるということです。
従業員が行う企業犯罪に対する内部告発は、株主や経営者や
他の従業員にはマイナスになったとしても、消費者ひいては
社会全体には長期的に見てプラスになります。
経営者の飼い犬のような従業員に、それが出来るでしょうか?
自分が所属する社会にとって、何がよいことなのか、それを
考えられる人間でありたいものです。
まあ、従業員という立場であれば経営者の悪事を放置しても
従業員だということで言い訳できるかもしれませんね。
しかし、主権者となるとそういうわけにもいきません。
北村氏や多くのコメントの人は触れていませんが、平成18年に教育基本法が改正させるまでは
旧法第10条に「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」
という条文があり、常に議論になってきた経緯があります。
一般的なライン組織と学校では、是非はともかく組織の空気は明らかに異なります。教員もサラリーマンというより個人商店主みたいな感じで、前述の法のこともあり学校内の多くの業務は上位からの指示ではなく個々の裁量で行われていることばかりです。
あえて一般企業になぞらえるなら、FCチェーンのようなものを考えると分かりやすいかもです。
それと、日教組の議論になると、とかく一定の組織が教育現場を牛耳っているという議論になるのですが
実際の組織率の低下もさることながら、前述の空気もあり組織力もすでに形骸と思います。全体としては協調路線に変化しています。
学校組織がそうであるように、ライン組織的空気が無いため組合内の統制も同じような感じだと思います。
現場でも「うるさいヤツ」が一人いるだけでずいぶんと空気が変わります。国旗国歌もそうですが歴史教育やジェンダー問題などでも、いろいろと議論になりますが、発生源が非常に個人的なものであることも少なくないと思う。原理主義的なのとかラジカルなのは右派左派問わずどこでもいます。
私自身は、はんてふさんやwishborn2400さんの意見に同意するものですが、「国旗やら国家やら別に・・・」という議論そのものから距離をおくような立場に近いかも。多くの学校でも「あっちは組合だから」と生暖かく距離を置かれてる人がいます(笑)
「スイス政府民間防衛」より。敵国が侵略してくる際の戦争なき戦争
第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」
第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」
第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」
第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」
最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」
これは一種のストーリーですが、みなさんはどう考えますか?
世界をゲーム理論で捉えるか否かで受けとめ方が変わってくると思います。
学校の日の丸問題も情報戦のひとつであるなら単純に国益だけを考えればいい。
人間は皆悪いと私は信じているのでこのような結論になるわけでもありますが。
srx600_2さん、
人間は皆悪いと信じているということでしたら、そもそも議論に
なりませんので、こういうところに書き込まれない方がよいかと
思います。
それから、敵国でなくても、あなたが危惧しているようなことは
起こります。と、いうよりも起こってしまいました。
大東亜戦争への日本の社会を考えてみてください。
「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」
「自分達がアメリカ的な価値観を刷り込まれている」
「君が代・日の丸復興案に乗じて、アメリカ的な価値観を
教化しようとする勢力が、現代日本において存在する」
「国歌が好きでなければ「過保護人間お坊ちゃま」ですか?」
「君が代と日の丸に意味を見出さない人は、
おそらくは、一生をこの国の中の生活しか
知らないのではないか」
「日本の伝統(戦前の日本と現在の日本との繋がり)を
否定したい人々。反日思想の持ち主である事」
これらに対する回答は、以下に引用する、
wishborn2400さんのコメントを置いておきましょう。
“日の丸や君が代に愛着を持つ人の「素直な」心情は理解
できますが、そうでない人の心情を理解できないという
のではいけません。国家に対する心情は、
複雑であってよいのです”
>> wishborn2400さん
性悪説というのは中国の思想家荀子曰く、人間の根底には原理的な欲望があり、善とは知識や理性の服を着た偽の状態であるという話です。
あなたの思うような議論にならないような極端な概念じゃあありませんよ。
今現在の世界情勢にはあまり興味は無いですか?
私は2次大戦を他の様々な事柄と同列に観ているので。
>> はんてふさん
どうしてもナイーブな方向傾いてしましますね。
自分が危惧しているのはこの国の情報戦略の弱さです。
なぜ日本の製造業が韓国・台湾に歯が立たないのか、日本政府は外交3流なんて呼ばれるのか、なぜ物量に巨大な差がある国に宣戦布告したのか。
すべて情報を軽視して、精神論に頼り進んできてこうなった。
日本の良き伝統とか教師(教育)の自由とかどっちも身内の中での話で、何かグランドデザインに沿ったものじゃないと意味がない。
srx600_2さん
“自分が危惧しているのはこの国の情報戦略の弱さです。
なぜ日本の製造業が韓国・台湾に歯が立たないのか、
日本政府は外交3流なんて呼ばれるのか、
なぜ物量に巨大な差がある国に宣戦布告したのか。
すべて情報を軽視して、精神論に頼り進んできてこうなった。
日本の良き伝統とか教師(教育)の自由とか
どっちも身内の中での話で、何かグランドデザインに
沿ったものじゃないと意味がない”
いや、このお考えには全面的に同意しますよ。
私も前のコメントで
“「あるべき国家とは何か」というのを議論するのが
大事だと思うんです”
と書いていますし。私が引用したポイントは
“国家に対する心情は、複雑であってよいのです”
というところです。”心情”と”グランドデザイン”は別。
更に謂うなら、”グランドデザイン”に”心情”が
従属する必要はないと思います(ナイーブですかね)。
また、”心情”と”グランドデザイン”の関係も然り、
互いに疎にして独立であるべき。
つまり、 srx600_2さんも私も、グランドデザインの構築
の目的では一致を見ますし、その結果も一致していますが、
その動機=心情?が異なるという事でしょう。
動機が異なっても、目的や結果が同一である、
という多様性は確保したいと思っています。
>48
これ前提に話せば、ここでしてる議論さえも工作員の洗脳だとか、そういう話になるわけですよね?
「民間防衛」は冷戦期に赤い移民を想定して作られたプロパガンダであって、今更マッカーシズムのたぐいは勘弁願いたいです。
それに、今の「日本」だってこういうプロセスでいろいろな郷里を飲み込んで出来上がったわけだし、自他を区別する境界さえ恣意的なものです。世界は互いに影響を与え合い淘汰されて大きくなってきたわけで。
私はむしろ、数々の戦乱の果てに統合しつつある欧州圏や、植民地から立ち上がって世界の中心に一角を占め始めたインドや中国の逞しさに人間のダイナミズムを感じます。
民間防衛なんて言ってるよりも、どんどん世界に進出して欲しいですね。企業もそうですが、ボーダーレスと大同合併によるビッグパワーに分があるように思われます
。
>51
製造業が歯が立ってないのはアメリカも同様だし、逆に日本の製造業は電気製品はともかく、建機や工作機械では未だ断然です。国家の情報戦略に原因を求めるのはちょっと違うと思います。
それと、「情報」の重要性というのは、多くの場合「後講釈」に過ぎないことが多い。戦前の日本にあっても、必要な情報はきちんと収集されていたこともだいぶ分かってきています。予めある答えに基づいて情報が利用されるという構造があるわけです。
>52
グランドデザインとかあるべき国家というのはそれほど自明な話ではないと思います。まぁ余程のことがない限り、政党のマニフェスト程度にしかならないと思います。
国家に特定の理念とか目的性が必然という考え方だって、数ある国家論の一部でしかないわけで。
情報戦略もグランドデザインも、相当に「心情」が牽引する概念だと思いますよ。
私は
「私はあなたと考えが合わないが、あなたの言論の自由を奪うものには反対します。」的な自由なプラットフォームに対する愛着が愛国心の根源であって欲しいし、国旗国歌などからも自由な心情を取りうる社会を私は愛します。
神道で成長を祝い、キリスト教的な結婚式をして、仏教式で死んでいく、こんな国民性、最高だと思いませんか?
srx600_2さん、「人間は皆悪い」と言うことと性悪説は違います。
「人間が皆悪いと信じている」これが極端でなければ、何を極端と
いうのでしょうか?
単に言葉の問題であれば、性悪説に立っているということで
了解しました。
敵国云々というような国際間の問題でなくても、ある種の侵略は
生じます。国内における、一部の人間への迫害や暴力として。
敵国云々と喧伝することは、そうした問題を見逃す、もしくは故意に
覆い隠すことを許してしまうことにつながりかねません。
「敵」という存在は魅力的なものです。そういうだけでに正義の味方に
なったような気分にさせてくれます。
しかし、そうした安易な思考が人を賢くすることはありません。
それが生み出すのは、愚かな多数者による弾圧か、少数者による
テロのような暴力的反発でしょう。
人は最初から賢いわけではないということには、全くの同意です。
世界情勢への興味以前に、具体的にどうなるということもないもの
を、血眼になって強制しようとしている人たちの精神性のほうが
危なそうですから。
“情報戦略もグランドデザインも、相当に「心情」が牽引する概念だと思いますよ”
“国家に特定の理念とか目的性が必然という考え方だって、数ある国家論の一部でしかないわけで”
“自由なプラットフォームに対する愛着が愛国心の根源であって欲しいし、国旗国歌などからも自由な心情を取りうる社会を私は愛します”
いや、一本取られました。
その通りですね。
同意。
コメント返しで、持論に正確に近付くのは難しいです。
ですがプラットフォームとして結論が出ればいいと
思います(持論=グランドデザインを心情が牽引したんですね)。
私の部屋の室温は、34.2度です。
「日の丸」と「君が代」が無くても、始業式や終業式が無くても授業はできます。無駄を省く意味で無くしましょう。
akiteru2716さん
帰納的なマニフェストは意味がないのでもっとマシなデザインが必要かと。
工作機械や素材はまだ日本が強いですね。楽天やパナソニックの急激な海外シフトは面白いとおもいます。
wishborn2400さん
ちょっと強調しただけで意味は同じつもりです。
確かに問題が杞憂で終わればいいんですが自分には確信は持てないです。
はんてふさん
そうですね予想する将来が多少違うので意見が分かれたのだと思います。
ただ日本車メーカーのラインアップの一貫性の無さや東京の街並みの猥雑さ、様々なカオス状態を放置する態度をみると、日本人はそもそも情報を整理して見せるつもりがないような気がしますね。
数日間長々とすみませんでしたm(__)m
srx600_2さん、性悪説の意図は了解しました。
杞憂というほど、(世界が崩壊するというほど)荒唐無稽な
心配ではありません。そうした問題意識をもたれるのは
有益だと思うのですが、情報源や情報そのものの信頼性の問題、
それを判断する自分の持っている偏向性などについて
無自覚なままですと、結論を先取りしてしまったり、
問題を過大または過小評価することになりかねません。
これは大いに自戒をこめて考えなければならないことですが。
uncorrelated さん、入学式や卒業式もありますからねえ。
意義あるものにしていく方向で考えません?
なんだか、ものすごく重視してる人もいますし。
まあ、私学だとなかったりするんで、実際のところなくても
問題ないことは間違いないんだけども。